ブーヘンヴァルト強制収容所
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記念碑として残されているブーヘンヴァルトの監視塔の一つ

ブーヘンヴァルト強制収容所(ブーヘンヴァルトきょうせいしゅうようじょ、Konzentrationslager Buchenwald)は、ドイツ国テューリンゲン地方エッタースベルク(de:Ettersberg)の森の丘の麓に設置した、「ブナの木の森」という名を持つ強制収容所ヴァイマル市のやや北西7キロメートルほどの位置にあった。1937年7月に設置されてから1945年4月のアメリカ軍による解放を迎えるまでの間にブーヘンヴァルトには総計で23万3800人の人間が囚人として送られ、そのうち5万5000人以上の人間がここで死亡したと見られている[1][2]。(2020年4月11日の解放75周年記念式典の報道では最新の調査の結果として、拷問・医学人体実験・飢餓による死亡者数は5万6千人以上とされている。)「ブッヘンヴァルト」「ブッヒェンヴァルト」とも表記される。
収容所の歴史解放後の1945年4月23日のブーヘンヴァルト。やせ細った囚人の遺体を前に立ち尽くすアルバン・W・バークリー米国上院議員

1936年秋、アドルフ・ヒトラーが立ち上げた四カ年計画を達成する過程で、大量の煉瓦が必要となり、そこでヴァイマルの北西エッタースベルクの丘のブーヘンヴァルトに強制収容所を建設することが予定された。囚人を動員し、この地域から産出する粘土を原料にして煉瓦製造に従事させるためである[3]。またこの時期、ちょうど刑事犯が次々と強制収容所に移送されていたため囚人の数が増加し、新しい強制収容所が必要となった[4]。そこで1936年末からリヒテンブルク強制収容所(KZ Lichtenburg)やザクセンハウゼン強制収容所から最初の囚人が送り込まれ建設工事が開始され、収容所は1937年7月に開設された。

最初の所長はコロンビアハウス強制収容所(KZ Columbiahaus)で悪名を馳せたカール・オットー・コッホ親衛隊大佐、所長の下で囚人の監督を直接行う収容所指導者(Lagerfuhrer)の職には血の勲章叙勲者でザクセンハウゼン強制収容所から赴任してきたアルトゥール・レードル親衛隊少佐(de:Arthur Rodl)が就任した[5]。1941年12月にヘルマン・ピスター(de:Hermann Pister)が新所長として赴任してきた。

1941年1月2日、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが定めた政令によれば、ブーヘンヴァルトは「重い罪科を犯しつつも改心の見込みがある者」を収容する収容所、と規定されたが、その政令に基づいて実際に釈放された者はほとんどいなかった。

大戦末期の1945年4月3日、収容所にアメリカ軍が接近してきたので親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが撤収を決定。囚人たちはテレージエンシュタット強制収容所へ移送する計画であったが、あまりの数に移送しきれず、囚人2万1000人を収容所に残したまま同年4月11日アメリカ軍第80歩兵師団によって解放された。

ここに到着するまでの間、何度も激しい戦闘をくぐりぬけ、死体もたくさん見てきたはずのアメリカ兵たちもブーヘンヴァルト強制収容所の惨状には思わず言葉を失った。腐乱した囚人の死体があちこちに転がり、中庭には裸の老若男女の死体が山積みにされていた。生き残っていた囚人たちも肉がほとんどなく骨と皮のようにやせ細っていたのだった。

その光景を見たジョージ・パットンは激怒。そのため彼はドイツ国民に自国の政府、すなわちナチス政権の犯した非人道的行為をしっかり目に焼き付けさせるため、付近の都市であるヴァイマルの市民たちを収容所へ連れてくるよう命じた。命令を受けたアメリカ軍憲兵隊は約2000人の市民を連行し、収容所内の惨状を見させた。解放後の収容所に連れてこられたドイツ人たちはほとんどがその光景から目をそらすか気を失ったかのどちらかだったという。
囚人について解放直後1945年4月16日のブーヘンヴァルト。下から2段目、左から7番目はエリ・ヴィーゼル[6]

この収容所が開設された1937年7月、囚人の数は政治犯を中心に929人であったが、刑事犯や浮浪者、労働忌避者などの収容で数を増し[4]、1938年1月1日の時点で2557人が収容され、さらに1939年1月1日には1万1028人になっている[7]


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