ブーツィー・コリンズ
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ブーツィー・コリンズ

基本情報
出生名ウィリアム・コリンズ
生誕 (1951-10-26) 1951年10月26日(72歳)
アメリカ合衆国 オハイオ州 シンシナティー
ジャンルファンク, ソウル, R&B
職業ミュージシャン、ベーシスト、ソングライター
担当楽器ベース・ギター
ヴォーカル
活動期間1968年 - 現在
共同作業者ザ・JBズ
パーラメント
ディー・ライト
ファンカデリック
ブーツィーズ・ラバー・バンド
ブーツィーズ・ニュー・ラバー・バンド
著名使用楽器
スペース・ベース

ブーツィー・コリンズ(William "Bootsy" Collins、本名 ウィリアム コリンズ William Collins、1951年10月26日 - )は、アメリカ合衆国ミュージシャンベーシストボーカリストオハイオ州シンシナティー生まれ。ジェームス・ブラウンのバックバンドJBズや、Pファンクの主要メンバーの一人として活躍し、ファンクの代表的なベーシストの一人である。

2020年、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第4位。
来歴

ブーツィーという名は幼少時に母親がつけたあだ名である。「ブーツィー」は1930年代半ばに黒人漫画家オリー・ハリントン (Ollie Harrington) がアムステルダム・ニュース紙上に書いたひとこま漫画の主人公[1]である。

ブーツィーは8歳の頃から、7歳上の兄フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズを真似て、ギターを弾きはじめた。兄と同じように、ギターもベースも弾いていたが、地元のクラブで演奏するために兄のギターにあわせてベースを演奏するようになった。14歳(1966年)頃から地元シンシナティのスタジオミュージシャンとして音楽活動を開始した。1967年、ブーツィーは、フィリップ・ウィン(ボーカル)と出会い、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ(ギター)、フランキー・キャッシュ・ワディ(ドラム)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)とともにバンドを組んで演奏するようになった。このバンドは最初”ペースセッターズ ”(Pacesetters) と名乗ったが、この名前のバンドがすでに存在したことから、ペースメイカーズ (Pacemakers) に名前を変更した。このバンドはジェームス・ブラウンのバックを務めることとなった[2]。シンシナティでバンドの売り込みをはかっていたが、やがてこのバンドはジェームス・ブラウンの目にとまり、ブラウンのバックを務めることとなった。
ジェームス・ブラウン、JBズ

1970年ジェームス・ブラウンのバックバンドが待遇改善を求めてストライキをおこした際、代役としてペースメイカーズが突如呼ばれ、リハーサルもなしにステージに立つこととなった。当時はブーツィは若かったため、当初はブラウンがやたら厳しいのがいやだったという。父親のいないブーツィーにとって、ブラウンは実の父親のようだった。ブラウンは、ブーツィーらの演奏がいかにひどいかを指摘し、何度も何度も練習させた。ブーツィーは、ブラウンの指摘を理解し、ポジティブな方法で、彼の指摘を使うようになった[3]。重責をこなしたブーツィーとフェルプスらは、1971年までの間、ジェームス・ブラウンのバックバンド、JBズとしてジェームス・ブラウンと活動をともにし、ファンクソウルミュージック界の中心に立つこととなった。JBズのメンバーは、ブーツィー、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ、ボビー・バード(オルガン)、ジョン・スタークス(ドラム)、ジョニー・グリッグス(パーカッション)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)、ダリー・"ハッサン"・ジャミソン(トランペット)。

それまでリズム隊のメインはドラム、リズムギター、およびホーンで、ベースはハーモニーの低音部であったのに対して、ブーツィーの加入により、ベースが一躍リズム隊のメインに躍り出た。ジェームス・ブラウンはブーツィーのベースをことのほか気に入り、ブーツィーを常にそばにおき、移動の時も(バンドのツアーバスではなく)プライベートジェット機に一緒に乗せていくほどだったという。ブーツィーの在籍時代に、ジェームス・ブラウンは「セックス・マシーン」(1970)、「スーパーバッド」(1970)、「ソウル・パワー」(1971) などの代表的なファンク・ナンバーを生み出した。

しかし、LSD等の薬物使用のため、ブーツィーはステージ上にあってもたびたび幻覚をみるようになった。1971年のある日、自分のベースが蛇に見えたブーツィーは演奏を止めてステージから逃げ出してしまい、ジェームス・ブラウンに解雇された。ブーツィーは、正装でバッキングに徹しなければならないJBズではなく、サイケデリック・ロックのようななサウンド、ビジュアル、ライブがやりたかった。1960年代後半から1970年代前半は、ジミ・ヘンドリックスらのサイケデリック・ロックがブラックミュージックの一部に影響を与え、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが、ロック、ソウル、ファンクを融合させて演奏していた時代だった。
ハウス・ゲスツ?Pファンク

ブーツィーはデトロイトに移住し、キャットフィッシュ、キャッシュ・ワディとともに、自身のバンド、ハウスゲスツ (The House Guests) を結成した。ハウス・ゲスツ名義ではJB直系ファンク曲の「ワット・ソー・ネバー・ザ・ダンス」がベスト盤に収録されている。ボーカルはペースメイカーズで一緒だったフィリップ・ウィンが担当し、またゲイリー・"マッドボーン"・クーパーも加わった。このバンドで活動中の1972年スピナーズから誘われ、フィリップ・ウィンはスピナーズに加わった[4]。またファンカデリックを辞めたビリー・ネルソンの代わりのベーシストをさがしていたジョージ・クリントンも、後にパーレットのメンバーとなるマリア・フランクリンの紹介でブーツィーに声をかけた。結局ブーツィーはキャットフッシュとともに、ジョージ・クリントン率いるPファンクに参加した。

Pファンクでは、ファンカデリック1972年発表のアルバム、『アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング』で数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用が頻繁だったためについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおき、キャットフィッシュやキャッシュ・ワディらとともにコンプリート・ストレンジャーズ (Complete strangers) の名で地元でバンド活動をした。しかし、パーラメント1974年発表のアルバム、『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke 』の録音には戻ってきて再びベースを弾いた。そして,親指と人差し指、および手のひら全体を使うスラップ奏法オートワウ(エンヴェロープフィルター)を使い、その後の彼の代名詞ともなる新しいベースサウンドを生み出すことに成功した。パーラメント1975年発表のアルバム『チョコレート・シティ Chocolate City 』および『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』ではこの彼の新しいベース音を聞くことができる。さらに1975年には、JBズつながりでメイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らをPファンクに引き連れてきた。彼らはその後Pファンクに欠かせないホーン陣となった。

また、ジミ・ヘンドリックスのまねをして歌う「ブーツィーボイス」をファンカデリック1975年発表のアルバム、レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ収録の 『ビー・マイ・ビーチ Be My Beach 』で披露した。このブーツィーのヴォーカルとキャラクターを生かすため、1976年キャットフィッシュ、フレッド、メイシオ、マッドボーン・クーパー(ボーカル)らとブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。バンドは「ストレッチン・アウト・イン」「アイド・ラザー・ビー・ウィズ・ユー」を発表した。ブーツィーは、星形のサングラスをかけ、星形の真っ白いベース(スペース・ベース)を弾き、また「キャスパー」、「ブーツィラ」、「スター・モン」、「ザ・カウント」などのキャラクターを演じる、ユーモアあふれるファンキーなステージアクトを繰り広げた。1984年にはトーキング・ヘッズのジェリー・ハリスンと共に、「ボンゾ・ゴーズ・トゥ・ワシントン」名義で、ロナルド・レーガンの暴言を揶揄する曲「ファイヴ・ミニッツ」をリリースした。[5]

1980年代後半になると、Pファンクの勢いは弱まり、ブーツィーも活動のペースを落とした。プレッシャーや、音楽以外のビジネス面での仕事が嫌で、故郷のシンシナティでゆっくりしていたという。しかしその後もソロアルバムを発表し続けた。1980年代後半から1990年代にはビル・ラズウェルのプロデュースのもと、ロックハウス的な音楽をやるなど、活動の幅を広げた。セッション・ベーシストとしても活躍し、キース・リチャーズトーク・イズ・チープ』(1988年[6]久保田利伸BONGA WANGA』(1990年)等に参加。


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