ブースト・グライド
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スキップ再突入の局面を示す。

ブースト・グライド軌道(英語: boost-glide trajectory)[1][2]とは宇宙機の誘導や再突入で用いる軌道の一つである。この軌道は、大気上層で空気力学的な揚力を用いることで、準軌道飛行を行う宇宙機や再突入機の飛行距離を伸ばす。最大の例では、ブースト・グライドは飛行距離を純粋な弾道飛行の2倍に延長する。他の例では、一連の「スキップ」によりさらなる飛行距離の延長を可能とし、「スキップ・グライド」や「スキップ再突入」などの用語となった。

この概念が最初に真剣に研究されたのは弾道ミサイルの飛行距離を伸ばすためだったが、射程を延長した伝統的な形状のミサイルが導入されたために作戦に採用されることはなかった。根幹となる空気力学上の概念は機動式再突入体(MARV)の製造に採用されている。これはパーシングIIなど数種類のミサイルでは命中精度の向上のためであり、アバンガルド (極超音速滑空体)のようなミサイルでは迎撃の回避のためであった。さらに最近の例では、射程の延長が低空を飛行する手段のために使われており、もっと高い弾道経路を描くのと比較して、より長時間レーダー探知を避ける助けになっている。

さらにこの概念は、月から地球へ帰還する機体の、再突入の時間を延長するためにも採用されている。さもなければ過大な速力を短い時間で落とさねばならず、極めて高い加熱比に悩まされた。アポロ司令船は基本的にワンスキップ再突入(パーシャル・スキップ)を用い、ソビエト連邦のゾンドや中国の嫦娥5号T1も同じである。もっと複雑な複数スキップ再突入が、オリオンのような新しい機体のために提案されている。
経緯
初期構想

ブースト・グライドの基礎概念が初めて注目を受けたのはドイツの砲兵将校たちによってであり、彼らの「ペーネミュンダー・プファイルゲショセ」が高高度に放たれた際、砲弾をさらに遠くへと投射できることを発見した。これは幾何学や上層の薄い大気を理由として完全に予期できるものではなく、こうした要因を考慮してなお、彼らは射程の延長が見られるのを説明できなかった。ペーネミュンデでの調査により彼らはある発見に至った。これは、高高度の薄い大気中の長い弾道では、砲弾が迎角を持ち、超音速において揚力を生み出すという結果だった。当時これは非常に好ましくないものに思われ、理由はそれが弾道計算を極めて難しいものにしたためである。ただ、射程延長のための応用の可能性を研究者が捨てることはなかった[3]

1939年6月、ペーネミュンデにあるクラウス・リーデル設計局に所属していたクルト・パットは、ロケット推進の速度と高度を、揚力と航続距離に変換する主翼を提案した[4]。彼はこの効果を算出し、A-4ロケットの射程が275kmから550kmにおおよそ倍加するとした。初期の開発はA-9の名称のもとで検討され、ツェッペリン・シュターケン社での風洞実験のほかに小規模な作業が行われ、以後数年間その状態が続いた。不活発な研究が1942年まで継続されたのちに開発は停止された[5]

真に長航続距離のためにブースト・グライドの概念を用いた最初期の提案は、1941年のジルバーフォーゲルである。オイゲン・ゼンガーによる提案であり、ドイツの基地からニューヨーク市を攻撃できるロケット動力機が飛行し、それから日本軍が確保している太平洋のどこかに着水するという構想だった。この構想では、機体の主翼を用いて揚力を生み出し、機を引き起こして新しい弾道飛行の軌道へと入り、大気を再び離れ、スキップの間に機体に冷却の猶予を与えている[6]。のちに構想がデモンストレーションされ、スキップ中の加熱量は当初の計算よりももっと大きいもので、宇宙機を溶かすだろうと予見された[7]

1943年、A-9の研究に再び着手、今回はA-4bの名称のもとに行われた。これは、開発が今やその他の点では未改修のA-4に基づいていたこと[5]、またA-4計画が当時「国家優先課題」であり、この開発がA-4の名の下で資金提供が確実化された立場に置かれたことを示唆している[8]。A-4bはV2ロケットの射程を十分に延長し、ドイツ領内深くからイギリスのミッドランド、つまりイングランド中部地域の都市か、ロンドンに達するよう後退翼を用いている[3]。A-9はもともと同様であったが、後には従来的な後退翼ではなく、長くて流線形の後退翼を装備した。この設計は有人のA-9/A-10大陸間弾道弾の上段用として採用されている。これは大西洋を過ぎたある点、ニューヨーク市を爆撃するのに十分な距離で滑空を始め、その後に乗員は脱出する[8][注釈 1]
戦後期の開発X-20ダイノソアは、有人型ブースト・グライド機の計画の中で最も実機の製造に近かった。この画像は再突入中のX-20を示している。

第二次世界大戦の後すぐ、ソビエト連邦のロケット技術者アレクセイ・イサエフはある報告書を発見した。これは1944年8月の「ジルバーフォーゲル」計画の最新版だった。彼は書類をロシア語に翻訳し、最終的にヨシフ・スターリンの注意を惹いた。彼は対蹠地爆撃の概念に強く興味を示した。1946年、彼は自らの息子であるヴァシリー・スターリンと、戦前に有翼ロケット機の作業を手掛けていた科学者のグリゴリー・トカティをパリに送り、ゼンガーとイレーネ・ブレットを訪問した。ソビエト連邦に参加し、努力するよう説得を試みるためであったが、ゼンガーとブレットは誘いを断った。[10]

1946年11月、ソ連ではゼンガーとブレットなしに国産の機体を開発するため、ムスティスラフ・ケルディシュの率いるNII-1設計局を編成した[11]。彼らの初期の研究は、同時期のアメリカで開発中だったSM-64ナバホとは異なり、ロケット動力の極超音速スキップ・グライド機のコンセプトがラムジェット駆動の超音速巡航ミサイルに変わることを確信させた。開発はある程度のあいだケルディシュ爆撃機として続けられたものの、従来的な弾道ミサイルの改良は最終的にこの計画を不要なものとした[10][注釈 2]


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