1979年のフランスの伝記映画については「ブロンテ姉妹 (映画)」をご覧ください。
1835年ごろ、長男のブランウェルによって描かれた3姉妹の肖像画(ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)。左からアン、エミリー、シャーロット。元々エミリーとシャーロットの間にはブランウェルが描かれていたが、彼自身の手により塗り潰された。
ブロンテ姉妹(ブロンテしまい、Bronte sisters, Brontes [b??nti(z)])は、19世紀イギリスのヴィクトリア時代を代表する小説家姉妹。シャーロット、エミリー、アンの3人を指す。六人兄弟であったが、幼くして長女・次女が亡くなり、実質的に、長男でシャーロットの下のブランウェル
(英語版)を含む四兄弟として育った。ヨークシャーのソーントンの牧師パトリック・ブロンテの子として出生。姉妹3者共同の『詩集』を発表後に、シャーロットは『ジェーン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンは『ワイルドフェル・ホールの住人』の各・長編小説を発表、イギリス文壇に多大な影響を与えた。 父・パトリック・ブロンテは、アイルランドのダウン県に生まれた。家庭教師を務めた後にケンブリッジ大学に特待免費生として入学。29歳で学位をとり、副牧師となった。本来の姓はブランティであったが、ネルソンがブロンテ公爵となると、これにあやかり姓をギリシャ語式のブロンテに変えた。パトリックは文学を嗜み、詩集や散文を発表したが、認められなかった。1812年、35歳の時にソーントンの牧師となり、裕福な商人の娘であったマリア・ブランウェルと知り合い結婚。夫妻の間には、1814年マリア、1815年エリザベス、1816年シャーロット、1817年パトリック・ブランウェル(以下、ブランウェル)、1818年エミリー・ジェーン(以下、エミリー)、1820年アンと計6人の子供が生まれた。アンが生まれた1820年、一家はハワースに移り、現在ブロンテ協会本部がある牧師館に入ったが、翌1821年、母が胃癌と結核を併発して38歳で死去。その後は母の姉エリザベス・ブランウェルが子供たちの母親代わりとなった。 1824年、マリア、エリザベス、シャーロット、エミリーは父の意志によりランカシャーのカウアン・ブリッジ校の寄宿舎に入った。しかしここは衛生状態が極めて悪く、翌1825年マリアとエリザベスは栄養失調のため結核にかかり家に戻されたが、間もなく2人ともわずか11歳と10歳で死去。その後、シャーロットとエミリーも家に戻され、ブランウェル、アンと共に空想にふけることになる。1826年に父がブランウェルに、所用で出かけたリーズの土産に1ダースの人形のおもちゃを贈り、子供たちは「もの書きゲーム」をして遊ぶようになり、「若者たち」「島の人々」という空想世界(パラコズム
家族と経歴
1831年よりシャーロットは私塾で1年半学び、その後そこで教師を務めた。またエミリーはロウ・ヒル・スクールの教師を短期間務め、後にシャーロットとアンは住み込みの家庭教師として働くようになった。まだ女性の社会進出がほとんど認められていなかった当時、教師は数少ない例外であった。1842年、シャーロットとエミリーは語学の勉強のためにベルギーのブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学するが、同年、留学資金を出していた伯母のエリザベス・ブランウェルが死去したため[2]イギリスに帰国。エミリーはそのままイギリスに残ったが、シャーロットは翌1843年に再びベルギーへ向かった。シャーロットは寄宿先の校長に恋慕していたが、校長が既婚者であったため恋が実ることはなく、年内に帰国。シャーロットの帰国後、姉妹たちは牧師館で私塾を開いたが、生徒が集まらず失敗に終わった。
シャーロットは詩人志望であったが、エミリーが書いていた詩を発見すると、盗み見に激怒するエミリーを根気強く説得し、アンの協力を得て詩集を作る。1846年、『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集(英語版)』の題名で刊行。ペンネームのカラー(Currer)はシャーロット、エリス(Ellis)はエミリー、アクトン(Acton)はアンのことであるが、この詩集はわずか2部しか売れなかった。また、シャーロットは「教授」、エミリーは「嵐が丘」、アンは「アグネス・グレイ」とそれぞれ小説を書き、出版社に送った。結果は、シャーロットのみ買われなかったが第2作の執筆を求められ、1847年に「ジェーン・エア」を刊行した。また、エミリーの「嵐が丘」とアンの「アグネス・グレイ」も同年に刊行された。「ジェーン・エア」は特に反響が大きく、シャーロットは3作目「シャーリー」を書き始めた。ブランウェル
ブロンテ家唯一の男児であったブランウェルは、父パトリックに溺愛され、甘やかされて育ったためか、うぬぼれの強い青年に成長した。ブランウェルは他の姉妹たちと同じく文学や絵画を始めたが、いずれも大成せず、自身は文学的才能に恵まれた姉妹たちに対し次第にコンプレックスを抱くようになった。18歳の頃、自身を含め姉妹4人の肖像画を描いたが、後にこの肖像画より自らの姿を抹消している(このページの右上を参照)。また他の姉妹たちと同じく家庭教師をしており、受け持った子の母親と不倫の関係に陥ったが、やがてその関係を父親に知られて解雇された。
これらの諸問題から、自ら酒と麻薬に溺れて急速に生活が荒れ、1848年9月24日に31歳で急死。その葬式の折にエミリーは風邪をひき、医者の診察を受けて結核にかかっていることが判明したが、彼女は自分が病気であることを認めようとせず、薬を飲むことも拒否し、同年12月19日に30歳で死去した。