ブロッサム・ディアリー
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ブロッサム・ディアリー
生誕 (1924-04-28)
1924年4月28日
アメリカ合衆国ニューヨーク
死没 (2009-02-07) 2009年2月7日(84歳没)
ジャンルジャズ
職業シンガー
担当楽器ボーカルピアノ
活動期間1952年 - 2006年
レーベルヴァーヴ・レコード
ダフォディル・レコード
キャピトル・レコード
フォンタナ・レコード

ブロッサム・ディアリー(Blossom Dearie, 1924年4月28日 - 2009年2月7日)は、アメリカジャズシンガーであり、ピアニスト。子供のような独特の歌声が特徴。

時に「ビ・バップベティ・ブープ」と評されることもあり、作家のドン・ウィンズロウは、ブロッサムをモデルに、スパイとして活躍する美しいジャズ歌手のヒロインを生み出している。
目次

1 経歴

1.1 誕生?

1.2 1940年代

1.3 1950年代

1.4 1960年代

1.5 1970年代以降


2 ディスコグラフィー

3 参考文献

4 外部リンク

経歴
誕生?

1924年の4月28日、ニューヨークの郊外にあるイースト・ダーラムに生まれる。「ブロッサム」という名前は本名で、ブロッサム(以下「彼女」)が生まれた時に、彼女の兄で、後のダフォディル・レコード主宰者である、ウォルター・バーチェットが父親の元へ満開のの枝を持ってきたのが由来という説がある。

子供の時はクラシック・ピアノを習っていたが、10代のときにジャズ・ピアノに転向する。
1940年代

1940年代の中頃からウディ・ハーマン楽団やアルヴィノ・レイ楽団など様々なコーラス・グループに参加。また、カクテル・ピアニストとして、クラブやバーで歌ったりもしていた。
1950年代

1952年にアメリカからフランスパリへ移る。そこで知り合ったアニー・ロスやミシェル・ルグランの実姉であるクリスチャン・ルグランらとコーラスグループの「ブルー・スターズ」を結成。

ジャズ・スタンダードの「バードランドの子守唄」をフランス語で歌うなど、数々の作品を残す。この「ブルー・スターズ」は、ダブル・シックス・オブ・パリなどへ連なるコーラス・グループの草分け的存在(ちなみに、クリスチャン・ルグランは後にスウィングル・シンガーズリード・ボーカルを務める)。彼女はパリでヨーロッパ的なセンスを体得。

1956年、初のリーダー作、「Blossom Dearie Plays "April in Paris"」を録音。ただし、この作品では彼女は歌っておらず、ピアノのみで参加。
このころに彼女は、初リーダー作の録音に参加したフルート奏者、ボビー・ジャスパーと結婚する。

彼女はフランスでもカクテルピアニストとしての活動を続けており、シャンゼリゼ通りのクラブなどで歌っていた。そこにヴァーヴ・レコードの主宰者、ノーマン・グランツが目を付けて、彼女に「アメリカで君の歌を録音したい」と提案。

アメリカに帰国、「Blossom Dearie」を録音する。
1960年代

夫であったボビー・ジャスパーと離別に前後し、再び渡欧。アメリカヨーロッパを行き来しながら音楽活動を続ける。

1962年、飲料会社であるハイヤーズルートビアのCMソングを歌うことを彼女に依頼。ルートビアの愛好者に彼女のレコードを景品に送る企画が持ち上がり、「Sings Rootin' Songs」を録音。この作品は作家の村上春樹が「秘蔵の一枚」にあげている。

そのほか、1964年にはキャピトル・レコードから「May I Come In?」をリリース。

もちろん、アメリカとヨーロッパを行き来する生活だったためイギリスのクラブでのライブ録音も残されている。
1970年代以降

1974年には彼女の兄であるウォルター・バーチェットを社長に迎えた自主レーベル、ダフォディル・レコード(Daffodil Records)を設立。そのころ、アメリカの子供向け教育番組、「スクールハウス・ロック」に出演、ボブ・ドローが手がけた「Figure Eight」などの曲を歌い、歌声を披露した。

晩年は2006年まで、マンハッタンの「ダニーズ・スカイライト・ルーム」などでライブを行っていたが、2009年2月7日、老衰のためグリニッジ・ヴィレッジで死去。


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