ブレンダ・リー
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ブレンダ・リー
Brenda Lee

基本情報
出生名Brenda Mae Tarpley
生誕 (1944-12-11) 1944年12月11日(79歳)
出身地 アメリカ合衆国
ジョージア州アトランタ
ジャンルロックンロールポップスロカビリーカントリーゴスペル
職業歌手
活動期間1955年 - 現在
レーベルデッカ・レコード (1959年?1969年)
MCAレコード (1970年?1991年)
ワーナー・ブラザース・レコード (1991年?1993年)
テルスター・レコード (1994年?1996年)
ベア・ファミリー・レコード (1997年?1998年)
MCAナッシュビル (1999年?現在)
共同作業者コニー・フランシススキータ・デイヴィスリッキー・ネルソンレスリー・ゴア、レッド・フォーリー、ムルガ・ブッカー

ブレンダ・リー(Brenda Lee、1944年12月11日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州出身で1960年代にチャートのトップの常連であった女性歌手ロカビリーポップカントリー・ミュージックを歌い、1960年代に47曲がアメリカのチャートにランクインし、その10年間のチャートではエルヴィス・プレスリービートルズレイ・チャールズに続き第4位であった[1]。1960年のヒット曲『I'm Sorry 』で最もよく知られ、1958年の『Rockin' Around the Christmas Tree 』は50年以上アメリカのクリスマス曲の定番となっている。

4フィート9インチ(約145cm)の小柄な体で、1957年のロック調に歌った曲『ダイナマイト』がヒットしたことから「リトル・ミス・ダイナマイト」と呼ばれている。またこのヒットにより世界的に知られるポップ・スターの1人となった。

1960年代後期には声に衰えが見え始めて人気に陰りが出てきたが、1970年代から1980年代を通してルーツであるカントリーに回帰し多くのヒットを残し成功し続けた。ロックの殿堂カントリー・ミュージックの殿堂、ロカビリーの殿堂のメンバーである。グラミー賞特別功労賞を受賞した。現在テネシー州ナッシュビル在住である。
経歴
生い立ち

ジョージア州アトランタにあるグレイディ記念病院でルーベン・リンジー・タープリーとアニー・グレイス(旧姓ヤーブロウ)のもとに生まれ、ブレンダ・メイ・タープリーと名付けられた[2]。出生時の体重は4パウンド11オンス(約2,100グラム)であった。父親の仕事の都合によりアトランタとオーガスタの間を始めとしていくつかの小学校を転校した。一家は貧しくその日暮らしの生活であった。水道設備のない3部屋の家の1室で2人のきょうだいとベッドを共にしていた。両親は仕事探しに明け暮れ、リーは毎週日曜日バプテスト教会でソロで歌っていた[3]

父親はジョージア州の赤粘土地帯の農家の出身であった。彼は5フィート7インチ(170cm)であったが、アメリカ陸軍野球チームで11年間左投げの優秀なピッチャーであった。母親も同様にジョージア州グリーン郡の無学の労働者階級の出身であった。

リーは音楽の神童と呼ばれていた。父親が亡くなるまで一家は屋内トイレもなかったが、電池式の卓上ラジオがあり、リーは幼少の頃からこれに魅了されていた。2歳の頃にはラジオで聴いた曲を口笛で吹けるようになっていた[4]。母と姉または妹によるとリーは3歳になる前に地元のキャンディ・ストアに行くとよく歌ってキャンディやコインを得ていた。
幼少時代のキャリア

5歳の頃より、リーの声、可愛らしい顔、舞台での存在感は広く注目を浴びた。6歳の頃、地元の複数の小学校が主催する歌唱コンテストで優勝した。優勝賞品はアトランタのラジオ番組『Starmakers Revue 』でのライヴであり、リーは翌年出演した。

1953年、リーが10歳の頃に父親が亡くなり、リーはイベント、地元ラジオ、テレビに出演して一家の稼ぎ頭となった。アトランタのテレビ局WAGA-TVのカントリー・ミュージック番組『TV Ranch 』にレギュラー出演していた時、リーの背がとても低かったため、司会者はマイクのスタンドを縮めてさらに彼女を木箱の上に立たせなくてはならなかった。1955年、母親はジミー・スキナー・ミュージック・センターで働くブエル・レインウォーター(愛称ジェイ)と再婚し、一家はオハイオ州シンシナティに引っ越した。リーはケンタッキー州ニューポートのラジオ局WNOP の2つの土曜日の番組のためレコード店でスキナーと共に演奏した。間もなく一家はジョージア州オーガスタに戻り、リーはジョージア州スワインボロのラジオ局WJAT-AM の番組『The Peach Blossom Special 』に出演した。
全米デビューおよびスターダム1962年4月、ロンドンのサットンにあるグラナダにて

1955年2月、出演料30ドルのスワインボロのラジオ局の仕事を断り、ABCテレビ『Ozark Jubilee 』のオーガスタでの番組宣伝のために来ているレッド・フォーリーに会いに行った。オーガスタのディスク・ジョッキーが番組前にフォーリーに彼女の歌を聴いてみるように説得した。小さな少女から発せられる大声に皆と同様にフォーリーも釘付けになり、その夜のステージでリハーサルなしで彼女に『Jambalaya 』を歌わせることを即決した。フォーリーはこの時のことについて以下のように語った:.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私は今でも初めてあの声を聴いた時のことを思い出すと鳥肌が立つ。彼女は片足を草原の火を踏みつけるようにリズムを取り始めたが、あの小さな体の他の部分は微動だにしない。彼女の声の魔法は私に舞台を降りることを忘れさせるほどの衝撃だった。観客の前での振る舞い方を26年間学んだつもりであったが、私の口は2マイル(約3km)に広がり目が点になったようだった

観客はパンチの効いた独自の歌唱力に大いに盛り上がり、さらに3曲を歌い終えるまで舞台を降りさせなかった。1955年3月31日、10歳でミズーリ州スプリングフィールドの『Ozark Jubilee 』で全米デビューした。5年間の番組出演契約は母親とマネージャーが起こした訴訟により破棄された[5]が、彼女は番組終了までレギュラー出演し続けた。

2ヶ月弱後の1956年7月30日、デッカ・レコードは契約を持ち掛け、彼女の1枚目のシングル・レコードはA面『Jambalaya 』、B面『Bigelow 6?200 』となった。2枚目のシングルはクリスマス曲『I'm Gonna Lasso Santa Claus 』、『Christy Christmas 』であった。1956年12月11日に12歳になったが、これら最初のデッカのシングルでは「リトル・ブレンダ・リー(9歳)」とクレジットされた。

1956年の以上のシングルはチャート入りしなかったが、ヒュー・アシュリー作曲の1957年の1枚目『One Step at a Time 』はポップおよびカントリー双方のチャートでヒットした。次のヒット曲『Dynamite 』では身長が明かされ、「リトル・ミス・ダイナマイト」とニックネームがつけられ、その後も使用され続けている。

当初カントリーの会場や公演で人気が出たが、レーベルおよびマネージメントはポップ歌手として売り出すのがベストと考え、その結果1960年代のカントリーのラジオ局では知られたヒットがなく、ナッシュビルの名演奏家たちとカントリーのサウンドで演奏していたにもかかわらず1969年の『Johnny One Time 』までカントリーでのヒット曲がなかった。
1958年?1965年: ビッグ・ヒット1965年

1950年代後期から1960年代中期にかけてロカビリーおよびロックンロールのスタイルの曲でポップ・チャートで大きな成功をおさめた。彼女の最大のヒットは『Jambalaya 』、『Sweet Nothin's 』(第4位。カントリー・ミュージシャンのロニー・セルフ作曲)、『乙女の青春(I Want to Be Wanted)』(第1位)、『オール・アローン・アム・アイ(All Alone Am I)』(第3位)、『Fool #1 』(第3位)である。またポップをベースにしたヒット曲には他に『That's All You Gotta Do 』(第6位)、『Emotions 』(第7位)、『You Can Depend on Me 』(第6位)、『Dum Dum 』(第4位)、1962年『Break It to Me Gently 』(第2位)、『Everybody Loves Me But You 』(第6位)、『As Usual 』(第12位)などがある。1960年の『That's All You Gotta Do 』から1962年の『オール・アローン・アム・アイ』まで『ビルボード』のホット100でトップ10に9曲連続ランクインし、女性歌手としてのこの記録は1986年にマドンナに破られるまで保持された。

リーのキャリアを通して最大のヒット曲はクリスマス曲であった。1958年、13歳の頃にプロデューサーのオウエン・ブラッドリーが『Rudolph the Red-Nosed Reindeer 』(ジーン・オートリー)、『A Holly Jolly Christmas 』(バール・アイヴス)など.カントリー歌手へのクリスマス曲で数々の成功をおさめていたジョニー・マークス作曲の新曲のレコーディングをリーに依頼した。ギターのパートはハンク・ガーランド、サックスのソロはナッシュビルのアイコンであったブーツ・ランドルフが担当し、7月に『Rockin' Around the Christmas Tree 』を収録した。11月にデッカはこのシングルを出版して5,000枚しか売れなかったが、1959年に再出版されるとヒットして最終的に500万枚売り上げた。


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