ブレンダ・ラッセル
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ブレンダ・ラッセル
Brenda Russell

基本情報
出生名Brenda Gordon
生誕 (1949-04-08) 1949年4月8日(75歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク
ジャンルR&Bポップスソウルダンスジャズ
職業ミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー
担当楽器ボーカル、キーボード
活動期間1963年 -
レーベルホライズン (1979年)
A&M (1979年?1982年、1988年?1992年)
ワーナー (1983年)
EMI (1993年)
ヒドゥン・ビーチ (2000年)
Dome / ナラダ・ジャズ (2003年?)
公式サイト ⇒www.brendarussell.com

ブレンダ・ラッセル(Brenda Russell、1949年4月8日 - )は、アフリカ系アメリカ人シンガーソングライターキーボーディスト

ソロ活動の他、ソングライターとしてスティーヴィー・ワンダーアレサ・フランクリンアース・ウィンド・アンド・ファイアードナ・サマースティング等多くのミュージシャンに楽曲を提供している。

代表曲に「ピアノ・イン・ザ・ダーク」がある。
略歴

ジ・インク・スポッツのメンバーでもあったガス・ゴードンを父に持つ。幼少時はカナダで育ち、12歳の時オンタリオ州ハミルトンに引っ越す。10代から地元のバンドで音楽活動を始める。10代後半にミュージカル『ヘアー』で知られるトロントのプロダクションに身を置く。1970年代初期にブライアン・ラッセルと結婚し、ブライアン&ブレンダ・ラッセルとしてユニットを結成。エルトン・ジョンのレーベル、ロケットより『World Called Love』(1976年)と『Supersonic Lover』(1977年)というアルバム2枚をリリースした。ラッセル夫妻はロバート・パーマーのソウルポップ・アルバム『ダブル・ファン』で2曲に参加。この他、シェリル・ラッドや、チャカ・カーンが在籍したルーファス(英語版)等に楽曲を提供している。1970年代後半にブライアンと離婚し、以後はロサンゼルスへと移り、ソロ活動をスタートする。

1979年にプロデューサー、トミー・リピューマのホライズン・レコードと契約。デビュー・シングル「ソー・グッド、ソー・ライト」を発表しヒットする。しかし、ホライズンは急遽活動を停止。彼女はホライズンの親会社であるA&Mと再契約し、セルフタイトルのアルバム『ブレンダ・ラッセル』を発表した。収録曲「If Only For One Night」は、後にルーサー・ヴァンドロスがカバーしヒットする。続けて1981年に『ラヴ・ライフ』をリリース。その後、ワーナーと契約し、1983年に『出逢いのときめき』をリリース。間もなく彼女はスウェーデンに拠点を移す。

ワーナーよりA&Mに戻り、1988年にアルバム『ゲット・ヒア』を発表。このアルバムは商業的にヒットし、収録曲の「ピアノ・イン・ザ・ダーク」はグラミー賞の3部門にノミネートした。1990年代になるとソロ活動は控えめになるが、ソングライターとしてティナ・ターナーフィル・ペリートム・スコットダイアナ・ロスレイ・チャールズレジーナ・ベルイヴァン・リンスジョー・コッカーカーク・ウェイラム等多くのミュージシャンに楽曲を提供。小比類巻かほる阿川泰子といった日本人にも楽曲を提供している。

2000年にヒドゥン・ビーチよりアルバム『パリ・レイン』を発表。収録曲「Love And Paris Rain」のオリジナルはイエロージャケッツのアルバム『クラブ・ノクターン』にブレンダが参加したもので、このラッセルのアルバムにはイエロージャケッツのキーボーディストのラッセル・フェランテが参加している。

2005年にはアリス・ウォーカーの著書『カラーパープル』がブロードウェイ化され、ラッセルはアリー・ウィリス、ステファン・ブレイと共にスコアを書いた。


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