ブレハの少女
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『ブレハの少女』英語: Girl of Brehat

作者黒田清輝
製作年1891年 (1891)
種類油彩画
素材カンヴァス
寸法80.6 cm × 54.0 cm (31.7 in × 21.3 in)
所蔵アーティゾン美術館東京都

『ブレハの少女』(ブレハのしょうじょ、: Girl of Brehat)は、日本の洋画家黒田清輝が描いた絵画[1][2]。1891年(明治24年)に製作されたと考えられている[3]。部屋の中に置かれた椅子の前で、1人の少女が壁にもたれかかって佇んでいる様子が描かれている[4][5]カンヴァスに油彩。縦80.6センチメートル、横54.0センチメートル[6]。フランスで製造されたと思われる額縁に収められている[7]。東京都のアーティゾン美術館に所蔵されている[1]

美術史研究者の三輪英夫は、「黒田の全画業のなかでも異彩を放っている」と評している[8]。美術史研究者の毛利伊知郎は、フランスのブレア島(英語版、フランス語版)で製作された黒田作品のうち「最も有名」な作品としている[9]

現在『ブレハの少女』と呼ばれている本画は、かつて『赤髪の少女』などと呼ばれていたことがある。一方、現在『赤髪の少女』と呼ばれている東京国立博物館所蔵作は、かつて『ブレハの少女』などと呼ばれていたことがある[5]。本項では、特記のない限りいずれの作品も現在の名称で呼称・表記するものとする。
名称赤髪の少女』、1892年、東京国立博物館所蔵

本画は、黒田の存命期間中に発表されたことがなく、『ブレハの少女』という名称が定着するのは、1954年(昭和29年)ごろである。それより前は『赤髪の少女』などと呼称されていた[5]。一方で、現在『赤髪の少女』と呼称されている、1892年(明治25年)製作、東京国立博物館所蔵の作品は、その呼称が定着するのが1954年(昭和29年)ごろであり、それより前は『ブレハの少女』などと呼称されていた[5]

アーティゾン美術館の貝塚健によると、黒田の夫人である照子(金子たね)および美術史家の隈元謙次郎の2人が『赤髪の少女』および本画『ブレハの少女』の名づけに大きく関わっているとされる[5]
由来『アトリエ』、1890年、鹿児島市立美術館所蔵黒田清輝『針仕事』、1890年、アーティゾン美術館所蔵

1891年(明治24年)9月初旬、かねてよりフランス北部のブレハ島(英語版、フランス語版)が興趣のある島であると耳にしていた黒田は、パリ近郊の芸術家村グレー=シュル=ロワンに滞在している黒田を訪問した洋画家の河北道介と久米桂一郎からの同島への旅行の誘いに乗った[10]。黒田、河北および久米の3人は、同月9日の夜にモンパルナス駅を出発し、サン=ブリュー(英語版、フランス語版)やパンポル(英語版、フランス語版)を経由して、同月11日の夕方にブレハ島に到着した[10]

黒田は、この島におよそ20日間ほど逗留した[9][4]。この逗留中に黒田は、同地に滞在していたスウェーデンの画家夫妻のほか、フランスやオランダの画家らと酒をくみ交わすなどして交友関係を結んだ[9][11]

この逗留期間中に黒田は本画のほかに、黄色い帽子を頭につけた少年と青紫色の衣服を身につけた少女を描いた油彩画『児童』(ブレハの村童、セキ美術館所蔵)などを製作し、また白色の頭巾を頭につけた少女などを描いた写生帖9号などを残している[4][12]。現在、本画は1891年(明治24年)に製作されたと考えられているが、それは黒田がその年の9月24日付けで、ブレハ島の子どもを描いた作品を製作しているとの旨のはがきを養父の清綱に宛てて送っているためである[3]

美術史家の隈元謙次郎は、このブレハ島旅行の主な目的は、絵画作品の製作にあったのではなく、グレー村での作品製作活動の合い間の休養にあった可能性を指摘している[4]。同月30日午後、黒田は河北および久米を残して1人で島を出発しパリに移り、翌10月3日にはサロンに出展する作品を製作するためにグレー村に戻った[4][9]

黒田の書簡によると、1891年(明治24年)11月に黒田がパリのアトリエに置いてあった6点の絵画を美術商の林忠正のもとに持参したところ、林はそのうちの2点を買い上げたとされる。貝塚によると、この2点のうちの1点が『ブレハの少女』であるとされる[3]

『赤髪の少女』および本画『ブレハの少女』の2つの作品は、黒田がフランスに滞在していた期間中に林に譲渡された。林が1906年(明治39年)に死去すると、その後に行われたコレクションの売り立てで山中定次郎が社長を務めた山中商会の所蔵するところとなった[5]。この売り立ての際に林の甥にあたる長崎周蔵が編集した『林忠正蒐集西洋絵画図録』(1908年)には、本画『ブレハの少女』は『赤髪ノ処女』というタイトルで掲載されており、これが本画の最初の記録である[7]

1924年(大正13年)11月5日から同月15日にかけて東京美術学校で開催された黒田清輝先生遺作展覧会において『赤髪の小女』というタイトルで本画が公開された[3]。1925年(大正14年)に審美書院より刊行された和田英作編『黒田清輝作品全集』でも、『赤髪の小女』というタイトルになっている[13]

1932年(昭和7年)11月25日から同月27日にかけて山中商会の主催による世界古美術展覧会が日本美術協会および常盤花壇において開催された。同展覧会は売り立てを目的としたものであった。このときの図録『世界古美術展覧会』では本画は『赤髪ノ少女』というタイトルで掲載されている[13]。この図録には、黒田の『ブレハの少女』『赤髪の少女』のほかに『アトリエ』(1890年、鹿児島市立美術館所蔵)『針仕事』(1890年、アーティゾン美術館所蔵)の4点の額縁つきの複製図版が掲載されている[13]。4点の額縁はデザインが同一であり、林がフランスでまとめて額装を行ったと考えられる[14]。同展覧会で照子は、この4点のうち『ブレハの少女』『赤髪の少女』『アトリエ』の3点を購入した[15]

1933年(昭和8年)10月17日から同月31日にかけて恩賜京都博物館(現、京都国立博物館)で開催された黒田清輝遺作展で照子は本画を出展した。この展覧会で初めて本画に『ブレハの少女』という名がつけられた[15]。1942年(昭和17年)に刊行された石井柏亭の『日本絵画三代志』では、本画を『赤髪の少女』と表記している[15]


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