ブレスト=リトフスク条約
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年2月)

ブレスト=リトフスク条約ブレスト=リトフスク条約原本の最初の2ページ
左から順にドイツ語ハンガリー語ブルガリア語オスマン語ロシア語で書かれている
署名場所ブレスト=リトフスク, フロドナ州
(ドイツ占領下のウクライナ)[1]
署名国

ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
ブルガリア王国
オスマン帝国
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
言語ドイツ語、ハンガリー語、ブルガリア語、オスマン語、ロシア語
en:Treaty of Brest-Litovsk - Wikisource

ブレスト=リトフスク条約(リトフスクじょうやく、ドイツ語: Friedensvertrag von Brest-Litowsk, トルコ語: Brest Litovsk Bar?? Antla?mas?, ブルガリア語: Брест-Литовски договор)またはブレスト条約(ウクライナ語: Брестський мир, ロシア語: Брестский мир)は、第一次世界大戦の終結を巡り、ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシブレスト)で1918年に締結された講和条約である。ウクライナ・ソビエト戦争の情勢もあり、ウクライナ人民共和国とのブレスト=リトフスク条約、独墺とロシア・ソビエトとのブレスト=リトフスク条約の2つの条約がある[2]
1918年2月9日ユリウス暦1月27日)に結ばれた条約 - 中央同盟国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国ブルガリア王国)とウクライナ人民共和国とが講和を結び、反ボリシェヴィキ共同戦線を張ることを合意した。なお、ウクライナではベレスチャ条約(Берестейський мир)とも呼ばれる。

1918年3月3日に結ばれた条約 - 中央同盟国とロシア共和国およびウクライナ人民共和国のボリシェヴィキ政府(後にソビエト共和国連邦を構成することになるソビエト共和国のひとつ)とが講和を結んだ。この条約により、ロシアが第一次世界大戦から離脱することとなった。一般的にはブレスト=リトフスク条約はこの後者を指す[3]

なお、ウクライナやロシアではそれぞれこの時期にそれまでのユリウス暦からグレゴリオ暦への転換を行っており、表示される年月日に混乱が生じがちであるので注意。以下では原則として現代のグレゴリオ暦で表示することとする。
背景と経緯詳細は「第一次世界大戦」、「ロシア革命」、および「ウクライナ・ソビエト戦争」を参照

ロシア帝国では1917年3月(ユリウス暦2月)の二月革命ロマノフ朝の政府が倒され、政治・経済が大混乱に陥り戦争の継続が困難となっていた。こうした中でウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキ党は即時休戦を訴え、国民からの支持を拡大していった。特に、ドイツ・オーストリアの軍隊と対峙していた前線部隊は、挙ってボリシェヴィキ支持を表明した。

11月7日、ボリシェヴィキ政府は十月革命によって政権を奪取した。旧ロシア帝国領であったウクライナキエフでは、11月10日にボリシェヴィキ派とロシア臨時政府派が軍事衝突を起こした。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}当時ウクライナで最大の勢力を持っていたウクライナ中央ラーダ政府はこの機会に2番手であった臨時政府[要検証ノート]の駆逐を狙い、ボリシェヴィキに加担して臨時政府派をウクライナから一掃した。この後、中央ラーダはボリシェヴィキが暴力革命を起こしたと非難し、両政府は険悪な対立状態に入った。中央ラーダは11月20日にウクライナ人民共和国の成立を宣言し、これが事実上のウクライナの独立宣言となった。

ボリシェヴィキ政府は中央ラーダの乗っ取りを図ったが失敗、いよいよ武力による介入を図ることになった。しかし、12月11日にキエフで決行されたボリシェヴィキ派工作員による最初の武装蜂起は失敗に終わり、前線からキエフへ向かった増援部隊も途中でウクライナ軍によって武装解除され、ボリシェヴィキはロシアまで追放された。12月15日に急遽中央同盟国側と休戦したボリシェヴィキ政府は、12月17日、中央ラーダ政府に対し最後通牒を突きつけるも拒否され、ウクライナ・ソヴィエト戦争が開始された。
和平交渉
ドイツ側代表を出迎えるロシア側代表トロツキー(中央左)

旧ロシア帝国領内における混乱から、ドイツなど強国がウクライナ問題へ干渉することは不可避であると予想された。ロシアの生命線であったウクライナの喪失を阻止するため、ボリシェヴィキは早急なる講和条約の締結に迫られた。ロシアと中央同盟国との和平交渉は12月22日、ボリシェヴィキ政府と同盟国側との休戦の1週間後にブレスト=リトフスクにおいて始められた。レフ・トロツキー外相を代表とする交渉団は、まず初めにベラルーシとポーランドの国境の画定を議題とした。中央同盟国側の代表は、ドイツのマックス・ホフマンであった。これに、エーリヒ・ルーデンドルフやトルコのリヒャルト・フォン・キュールマン(ドイツ語版)、オーストリア=ハンガリーのオットカル・チェルニン(ドイツ語版)らが加わっていた。しかし、ロシア側が「賠償金や領土併合なしの和平」を要求し、交渉はすぐに頓挫した。

12月25日にはハルキウボリシェヴィキ派のウクライナ人民共和国の成立が宣言され、ウクライナにおけるボリシェヴィキの新たな拠点となった。同日、ロシアの赤軍はウクライナ領内への侵攻を開始し、1月初旬までの間に東ウクライナの大半の地域を占領した。ウクライナ側の守りは、ボリシェヴィキのプロパガンダ工作とスパイによる武装蜂起などによって脆くも崩れ去った。

一方、中央ラーダはウセーヴォロド・ホルボーヴィチ(ウクライナ語版)首相を長とする代表団をブレストへ送った。交渉団は、ムィコーラ・レヴィーツィクィイ、ムィコーラ・リュブィーンシクィイ(ウクライナ語版)、ムィハーイロ・ポーロズ(ウクライナ語版)、オレクサーンドル・セウリュークら政府の重役によってなっていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef