ブレスト合同(ブレストごうどう、ベラルーシ語: Берасьце?йская у?н?я、ウクライナ語: Берестейська ун?я、英語: Union of Brest)とは、1596年にウクライナ東方カトリック教会[1]が成立した、教会の合同を言う。 ブレストの位置(ベラルーシの地図)目次 キリスト教の教会は11世紀には東方正教会とローマ・カトリック教会に分かれていた[2]が、ブレスト合同はカトリック国であるポーランド・リトアニア共和国領であったルテニア(現代のベラルーシ・ウクライナ西部・リトアニアにまたがる地域)に限定された形で、ローマ教皇のもとに、分裂した状態の両教会を合同させようとしたものである。 ブレスト(現在はベラルーシ領内)で教会合同会議が開催された結果、コンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあった正教会[3]のうち、主に主教などの高位聖職者の主導の下、一定数の教区・教会が東方典礼を維持する事と教会運営に関する高度な自治を条件にローマ教皇の管轄下に入った。 ただし後述するように、ブレスト合同は合同推進派の強引かつ性急に過ぎる手法や、ローマ教皇の管轄の下に入るという形での合同に反対した少なく無い正教会の一団の動向によって不徹底なものに終わり、ウクライナにおける全ての教会がウクライナ東方カトリック教会に再編されたわけではなく、引続き正教会に留まる教会・信徒も少なくなかった。 ウクライナの教会は東方典礼カトリック教会の一員たるウクライナ東方カトリック教会と、コンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下にとどまった正教会とに分裂することとなった。後者は現代のウクライナ正教会に発展する。 ブレスト合同成立の時のポーランド王はジグムント3世であり、モスクワへの侵攻も行った上で全ロシアのカトリック化を目論むなど積極的に支配領域の拡大とそのカトリック化を図る人物であり、熱烈なカトリック信者であった。 ポーランド王は、支配下においた教会に対して大きな裁量を持っていた。その対象は相手がカトリック教会であるか正教会であるかを問わなかったが、ポーランド王はカトリック教会を奉じており、既に東西教会の分裂が確定して久しい16世紀において、ウクライナの正教会は支配者であるポーランド王による圧迫に耐えなければならなかった。ウクライナの正教会の指導者たるキエフ府主教を始めとした各教区の主教達の任免は、王の恣意に任されていた。国王に指名される者は大概は貴族であり、任命以前には俗人である事がほとんどだった[4]。 教会に通暁していない世俗貴族を王が主教に選任する事によってウクライナの正教会には混乱がもたらされ、高位聖職者は腐敗していった[4]。
1 概要
2 背景
2.1 ポーランド王の施策
2.2 俗人正教徒による運動
2.3 イェレミアス2世によるルーシ歴訪と、正教会内の亀裂
2.4 カトリック教会の対抗宗教改革
3 ブレスト合同の成立
3.1 ブレスト教会会議に至る経緯
3.2 合同派によって合同反対派が締め出された教会合同会議
3.2.1 合同賛成派によるブレスト合同の宣言
3.2.2 教会合同反対派の宣言
3.2.3 ポーランド王のブレスト合同承認
4 ブレスト合同以後
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
概要
背景
ポーランド王の施策 ポーランド王ジグムント3世
俗人正教徒による運動 キエフ・ペチェールシク大修道院。