ブレシアの十日間
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ブレシア包囲戦
ブレシアの十日間
第一次イタリア独立戦争(英語版)中

ブレシアの十日間

時1849年3月23日 - 1849年4月1日[1]
場所ブレシア, ロンバルド=ヴェネト王国
結果オーストリアの勝利

衝突した勢力
ブレシア[1][2] オーストリア帝国[3]
指揮官
ティート・スペーリ
ジュゼッペ・マルティネンゴ
Pietro Boifava
[4][5][6]ユリウス・フォン・ハイナウ元帥
ヨハン・グラーフ・ヌゲント少将 
[7][8]
戦力
多数のバリケード[9]
武装兵[7][10]2,000?3,000人オーストリア守備兵:[11]
4個中隊
大砲30門
ヌゲント旅団:[7][8]
歩兵・騎兵2,300人
大砲4門
30ポンド砲(Morser-Batterie)
被害者数
戦死 約1,000人 [12][13]
市民を含む [14]
処刑 16人[10]3月31日-4月1日: [7]
戦死 53人[7]
将校3人を含む
戦傷 209人[7]
将校13人を含む
行方不明 54人[7]

ブレシアの十日間 (イタリア語: Dieci giornate di Brescia) は、1849年3月23日から4月1日にかけて[1]北イタリアブレシアで発生したオーストリア帝国に対する反乱である[1][2][3]
勃発

19世紀前半、ブレシアはオーストリアの傀儡国ロンバルド=ヴェネト王国に属していた。1849年3月23日、サルディーニャ王国とオーストリアが激突したノヴァーラの戦いと同じ日に、ブレシアでティート・スペーリ率いる反乱が勃発した。なお、ノヴァーラの戦いはオーストリアの勝利に終わったが、その知らせはまだブレシアに届いていなかった。
経過

ブレシアに駐屯していたヌゲント将軍率いるオーストリア軍は、急いで城塞に立て籠もり、市街に向け砲撃した。これにより、歴史的建造物が多く破壊された。反乱勃発後8日目にしてオーストリア軍の救援が到着し、ブレシアは包囲された。翌日、この援軍を率いるユリウス・ヤコブ・フォン・ハイナウ元帥(後に「ブレシアのハイエナ」とあだ名される)が、ブレシア市に無条件降伏を要求した。しかし反乱軍はこれを拒絶したが、深夜まで戦い続けた末、スペーリら反乱軍の幹部たちは降伏を決断した。ところが4月1日、降伏文書の調印が終わらないうちにオーストリア軍がブレシア市になだれ込み、住民を虐殺した。

戦いを通じて1,000人の市民が殺された。十日間のブレシア市の果敢な抵抗を讃え、ブレシア市は「イタリアのライオン」 (Leonessa d'Italia)と呼ばれるようになった。
脚注^ a b c d Corti, Siro (1885). Breve storia del Risorgimento italiano narrata alla gioventu. Turin 
^ a b Wochenblatt, Freitag, 6. April (1849). Wochenblatt fur den Koniglich-Bayerischen Gerichtsbezirk Zweibrucken No. 41.. Zweibrucken 
^ a b W. & R. Chambers (1868). Chambers's encyclopaedia: Vol. 2. London 


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