ブルーノ・タウト
生誕1880年5月4日
ドイツ帝国
プロイセン王国、東プロイセン
ケーニヒスベルク
死没 (1938-12-24) 1938年12月24日(58歳没)
トルコ、イスタンブール
国籍 ドイツ
職業建築家
建築物鉄の記念塔
ガラス・パヴィリオン
ベルリン市ブリッツの馬蹄形住宅
ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日 - 1938年12月24日)は、東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家[1]。鉄の記念塔(1913年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。
1933年、ナチスの迫害から逃れるため上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会の招聘で来日し3年半滞在した[2]が建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより転地し、1938年にトルコで没した。 父ユリウス・ヨーゼフ・タウト、母ヘンリーテ・アウグステ・ベルタ・タウトの第三子として1880年5月4日ケーニヒスベルク生まれる[1]。1897年クナイプホーフ・ギムナジウム卒業後、ケーニヒスベルクの建設会社グートツァイト入社、2年間、石積み・レンガ工事などの壁体構造の仕事の見習いとして働いた[3]。父親の商売が失敗したことから、大学の授業料を稼ぐ必要があったので、20歳の時にケーニヒスベルクの国立建築工学校に入学した後も建築現場で見習いとして働きながら得た金を学資にして1902年に卒業[3]。 卒業後、ハンブルク、ベルリン、シュトゥットガルトなどで修業を積み、1903年にベルリンの建築事務所(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ブルーノ・メーリンク[要出典])に就職[4]。1904年から1908年までの間、シュトゥットガルト工科大学教授だったテオドール・フィッシャーに弟子入りして(テオドール・フィッシャーの設計事務所勤務[要出典])建築理論と実務を本格的に学んだ[5]。1908年からは、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学のテオドール・ゲッケ教授の授業を受け、ベルリンのハインツ・ラッセン教授の設計事務所で働いた[6]。グラスハウスの内装 1909年、同僚のフランツ・ホフマンと設計事務所を設立・開業[6]、1912年には弟のマックス・タウトもメンバーに入った[6]。1910年、ドイツ工作連盟に参加。[要出典]1913年には、ライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作り[7]、1914年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった[8]。「鉄の記念塔」、「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」[注 1]は表現主義の代表的な作品とされる[9]。この頃設計した、田園都市ファルケンベルクの住宅群
人物・来歴
修業時代
1904年頃、ベルリンから北東に50kmの場所にあるコリーンという村に滞在し[5] ヘドヴィック・ヴォルガスト(鍛冶屋であるヴォルガスト家の娘,三女[10])と出会い、1906年に結婚した[11]。