この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "ブルース・ジョンストン"
この項目では、アメリカのミュージシャンであるブルース・アーサー・ジョンストンについて説明しています。アメリカのギャングについては「ブルース・アルフレッド・ジョンストン」をご覧ください。
ブルース・ジョンストン
基本情報
出生名ベンジャミン・ボールドウィン
生誕 (1942-06-27) 1942年6月27日(81歳)
出身地イリノイ州ピオリア
ジャンルポップ、サーフ・ミュージック、ポップ・ロック
担当楽器ヴォーカル, キーボード, ベース
活動期間1962年 - 現在
共同作業者テリー・メルチャー、ザ・ビーチ・ボーイズ
ブルース・アーサー・ジョンストン(Bruce Arthur Johnston, 1942年6月27日 - )は、ザ・ビーチ・ボーイズのメンバーとして知られる、アメリカのミュージシャン。本名は、ベンジャミン・ボールドウィン(Benjamin Baldwin)。共和党支持者としても知られている。 イリノイ州ピオリア出身。孤児であった彼は、レクサール・ドラッグストア・チェーンの重役に養子として引き取られ、ビバリーヒルズに移り住む。 1950年代後半より、数々のマイナー・レーベルにて様々なレコード制作に携わる。1960年にはデル=ファイ・レーベルと契約、1962年に初のソロ・アルバム『サーファーズ・パジャマ・パーティ』を発表。1963年には友人となったテリー・メルチャーに誘われてコロムビア・レコードに移籍、2作目のソロ・アルバム『サーフィン・ラウンド・ザ・ワールド(サーフィン 世界をまわる)』を発表。テリーと組んでリップ・コーズのレコード制作に関わったほか、ブルース & テリーとして1966年までシングルを発表する。 1965年のツアーに、ブライアン・ウィルソンの代役としてビーチ・ボーイズに参加していたグレン・キャンベルがバンドを離れた後に、その代わりとしてマイク・ラヴに誘われて加入した。元々はキーボードが専門でベースを弾いたことがなかった。しかし2?3週間でベースを習得した(なおギターは多少弾け、アルバム『パーティ』などで演奏している) 1968年に放映されたエド・サリヴァン・ショーにビーチ・ボーイズの一員として出演。隠遁生活を送っていたブライアンに代わり、キーボードを担当している。ビーチ・ボーイズのキャピトル・レコード在籍時にはリード・ヴォーカルを取ることはなく、地味な存在だったが、ワーナー・リプリーズ
来歴
彼は1971年の『サーフズ・アップ』発表後に当時のマネージャー、ジャック・ライリーと対立し、ビーチ・ボーイズを脱退する。しかしながら、1970年代を通じてバンドの各作品にゲストとして参加し、1979年の『L.A. (ライト・アルバム)』で公式に復帰した。
彼はまた「ディズニー・ガールズ (1957)」を始めとする数々の曲を作曲している。同曲は、キャプテン&テニールと、アート・ガーファンクルによってカヴァーされた。さらに彼は、バリー・マニロウによって取り上げられた全米No.1ソング「歌の贈りもの (I Write the Songs)」で、1977年のグラミー賞最優秀楽曲賞を受賞した。