ブルース・コバーン
Bruce Cockburn
2007年、アラバマ州バーミンガムで演奏するコバーン
基本情報
出生名Bruce Douglas Cockburn
生誕 (1945-05-27) 1945年5月27日(79歳)
アイオワ州ウォータールー
出身地 カナダ オンタリオ州オタワ
ジャンルフォーク、ロック
職業シンガーソングライター
担当楽器ギター、ボーカル
活動期間1967年 -
公式サイト ⇒www.brucecockburn.com
ブルース・コバーン(Bruce Cockburn、OC、[?ko?b?rn]
、1945年5月27日 - )[1]は、カナダのシンガーソングライターかつギタリスト。彼の曲のスタイルはフォークからジャズ風のロックまで幅広く、歌詞も人権、環境問題、政治、宗教などの幅広い範囲をカバーしている。コバーンは40年以上にわたるキャリアの中で、34枚のアルバムに350曲以上の曲を書き[2]、その中で22枚がカナダでゴールドないしプラチナ認証を受け[3]、カナダ国内だけで100万枚以上のアルバムを売り上げている。2014年、コバーンは回顧録『Rumours of Glory』を出版した。2016年にはアルバム『クリスマス』がカナダでの60万枚の売り上げで6枚目のプラチナ・ディスクとなった。 コバーンは1945年にオンタリオ州オタワで生まれ、しばらくの間ケベック州チェルシー近くの祖父の農場で過ごしたが、10代の頃はオタワ郊外のウェストボロで育った。父親のダグ・コバーン (Doug Cockburn)は放射線医で、当時のオタワ市民病院のX線診断の責任者になっていた[4]。コバーンはインタビューの中で最初のギターは1959年ごろに祖母の家の屋根裏で見つけたもので、金色の星の模様がついており、ラジオからのヒット曲にあわせて演奏していたと述べている[5]。このギターは、コバーンの最初のギター教師であるハンク・シムズに使い物にならないと宣言されたことで、両親が買い与えたフラットワウンド弦とDeArmondのピックアップを備えた、Kayのアーチトップギターに置き換えられた[6]。 その後、コバーンは彼と家族が参列していたウェストボロ合同教会のオルガン奏者のピーター・ホールにピアノと音楽理論を学んだ。コバーンはジャズを聴くようになり、作曲を学びたいと望んでいた。ホールは友人のボブ・ランブルと共にコバーンを勇気づけ、長い時間をホールの家でジャズを聴いて議論するために過ごした[7]。 コバーンはネピアン高校に通学し、1964年の卒業アルバムには「ミュージシャンになる」という希望が述べられている[8]。当時のネピアンの音楽教師だったロナルド・E.J.・ミルン(en:Ronald E.J. Milne
生い立ちと教育
コバーンはボストンにあるバークリー音楽学校に入学し、1964年から1966年の3年間ジャズの作曲などを学んだ。1966年に音楽学校を中退し、オタワのバンド The Children に参加したが、1年ほどでバンドは解散した。 1967年の前半にコバーンは The Esquires
キャリア
初期のキャリア
コバーンの最初のソロでの出演は1967年のマリポサ・フォーク・フェスティヴァルで、1969年にはメインの出演者となっていた[11]。1970年にセルフタイトルのソロ・アルバムをリリースした。シングル「Going to the Country」がRPMのトップ50カナディアン・チャートにチャートインした[12]。
コバーンのギター演奏と曲作りは熱狂的な追随者を勝ち取った。初期の作品には田園や海のイメージと、聖書の比喩を特徴としていた。不可知論者として育ったが、キャリアの初期にキリスト教徒になっていた[13]。1970年代の多くのアルバムではキリスト教的主題に言及しており、それが人権と環境問題への懸念へと転じることになった。キリスト教への言及には20世紀のキリスト教詩人チャールズ・ウィリアムズ(英語版)の聖杯のイメージと、神学者ハーヴィ・コックスのアイデアが含まれている[14]。
1970年にコバーンは音楽出版社ゴールデン・マウンテン・ミュージックのバーニー・フィンケルスタインのパートナーとなった[15]。1971年から73年の3年連続で最優秀カナダ人フォークシンガー部門でジュノー賞を受賞した[16]。1974年のジュノー賞でも最優秀カナダ人フォークシンガー部門と最優秀男性歌手部門でノミネートされた[17]。