ブルースター・エアロノーティカル
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この項目では、航空機メーカーのブルースター(ブリュースター)について説明しています。「ブルースター」もしくは「ブリュースター」のその他の用法については「ブルースター (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ブルースターの開発・生産した代表的な航空機、F2Aバッファロー戦闘機

ブルースター・エアロノーティカル・コーポレーション(Brewster Aeronautical Corporation)は、1932年から1946年まで存在したアメリカ合衆国航空機メーカーである。「: Brewster」の原語における発音は[bru?st?]であり、日本語の片仮名表記でなら“ブルースター”が適切であるが、日本では慣例的に「ブリュースター」と表記されることが通例となっている。当項目では原語の発音に従い「ブルースター」と表記する。
沿革
前史

ブルースター・エアロノーティカルは、当初は自動車ボディメーカーのブルースター(Brewster & Co.)の航空機部門として設立された。ブルースター社は馬車職人であったジェームズ・ブルースター(James Brewster)によって1810年に創設され、19世紀の創業当時は馬車の、自動車の発明以後は自動車の車体を製作する工場として運営されており、1896年には初の自動車用ボディを製造している。詳細は「en:Brewster & Co.」を参照

ブルースターは馬車・自動車車体共に高い技術と工作技術を持つメーカーとして著名であったが、航空機の発明と発展に伴い、自動車車体メーカーとしての経験と技術を活かして航空機の外装部品の製作を請け負う部門として、“ブルースター・エアクラフト”(Brewster Aircraft Division)の名で1924年に航空事業部を発足させた[1]

1920年代後半に入り、ブルースター・エアクラフトはコンソリデーテッド・エアクラフト社が経営上の判断から設計図と製造権を売却した試作複葉単発機、コンソリデーテッド モデル14“ハスキー・ジュニア”(Consolidated Model 14 Husky Junior)の全権利を買い取り、航空機の自社生産に着手した。モデル14の権利はブルースターの購入後程なくカナダの航空機メーカーであるフリート・エアクラフト(Fleet Aircraft(英語版)[2]に買い取られたため[3]、航空機メーカーとしての経営計画は修正されたが、これによりブルースター・エアクラフトは航空機の設計と製造に関する基礎的な知見と技術を得た。
独立企業として

ブルースター本社では、1929年から始まった大恐慌により高級車の需要が激減したために経営が悪化していることもあり、航空事業部の存続について否定的な意見も出たため、航空事業部の売却が検討されたが、1932年2月にアメリカ海軍航空機工廠(英語版)出身の航空技術者であり、ロッキード社の副社長兼ゼネラルマネージャーであったジェームズ・“ジミー”・ワーク(James Work)がブルースターから航空事業部を30,000USドルで買い取り、「ブルースター・エアロノーティカル」として独立企業として設立した。

ブルースター・エアロノーティカルはニューヨーク州クイーンズのブルースタービル(英語版)(元会社のブルースターの本社と工場があった)に本社工場を構え、ニュージャージー州ニューアークのニューアーク空港(後のニューアーク・リバティー国際空港)の一角に市から格納庫を借りて第2工場とした[4]。当初は主にグラマン社やローニング(英語版)向けの水上機のフロートと翼面パネルの製作の請負製作を主眼としており、この他、アルミニウム合金製のボートの製作も手がけた。

これらの下請け製作に従事する傍ら、ブルースター社ではモデル14の設計を元に改めて自社設計の航空機の開発を計画し、副社長兼チーフエンジニアのデイトン・ブラウン(Dayton T Brown)[5]の設計で完全自社設計の航空機の開発を始めた[6]

1934年には新興メーカーながらアメリカ海軍の新型の複座艦上索敵/爆撃機の開発計画に参加して1機の発注を受け、この試作機はXSBA-1と名づけられて1936年4月に初飛行した。これはブルースター社にとって初の自社開発機であり、初の軍制式採用機であった。試作機は高い性能を示し、1938年9月にSBAとして30機の発注が行われたが、この時ブルースターの所有するクイーンズとニューアークの工場には今だ航空機の本格的な製造設備がなく、軍の要求する機数を要求期限内に量産する能力がなかったため、生産はフィラデルフィアの海軍航空機工廠で行うことになり、名称は海軍航空機工廠製を表すSBNと改められた。このため本格的な生産の開始が遅延し、2年後の1940年11月に生産1号機が納入された時には既に一時代遅れた性能となっており、練習機としてのみ使用された。

同じく1936年にはアメリカ海軍の新型艦上戦闘機の試作競争でグラマンと争い、F2Aとして採用された。F2Aはアメリカ海軍としては初の単葉、引き込み脚式の艦上戦闘機である。F2Aの試作機は1938年に引き渡され、高い評価を得て同年6月には66機の発注を受けた他、イギリスとオランダ、そしてベルギーからも多数の発注を得た。前作であるSBAと異なりF2Aはブルースター社自身で生産することになり、初めての自社生産機となった。F2Aは当時としては先進的な設計で、性能も低いものではなかったが、まだ珍しい全金属製機で、自社生産の経験がないブルースターは生産ラインの構築と工員の養成に予想外の期間を要した上、生産が行われたクイーンズとニューアークの両工場は共に受注数に対して明らかに工場規模が小さかった。このため生産が遅延、納入が大幅に遅れ、F2Aの量産機の引渡しは1939年6月に始まったが、同年11月までの半年間に5機しか納入されなかった。この事態に対処するためにアメリカ海軍は前任であったはずのグラマンF3Fの改良型を急遽発注することになり、1941年太平洋戦争開戦時には、グラマン社が前述の計画に提出した案を発展させて開発したF4F“ワイルドキャット”がアメリカ海軍航空隊の主力艦上戦闘機となっていた。

ブルースター・エアロノーティカルがその母体である自動車ボディメーカーから引き継いだクイーンズ工場は、本来は自動車の組み立て工場であり、工場内で一旦組み上がった機体を輸送するために外に出すには分解せねばならないなど、航空機の組立には構造的に不向きだった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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