ブルンヒルダ
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ブルンヒルド
Brunhilda
アウストラシア王妃
「拷問されるブルンヒルド」フィリポトーの画をもとにしたジラルデによる銅板画。
在位567年頃 - 575年

出生543年
トレド
死去613年
ルネーヴ
配偶者アウストラシア王シギベルト1世(英語版)
 ネウストリア王子メロヴィク
子女イングンド
クロドシンド
キルデベルト2世(英語版)
父親西ゴートアタナギルド
母親ゴイスウィンタ(ゴイスヴィント)
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ブルンヒルド[1]543年頃 - 613年)は、アウストラシアの王シギベルト1世(英語版)の妃。王の亡き後は息子や孫、曾孫の摂政としてアウストラシア東部とブルグントを支配した。ローマ式の中央集権制度を導入し[2]、当初は政治的な洞察力を持つ優れた進歩的な支配者として知られたが、晩年は冷酷で貪欲な人物として名高くなっていった。
生涯

ブルンヒルドは543年ごろに西ゴート王国の首都トレドで王アタナギルドと王妃ゴイスヴィンタの間に生まれた。彼女は二人姉妹の妹であった。父アタナギルドが王位に登り詰めた554年、ブルンヒルドはまだ11歳だった。彼女はトレドでキリスト教アリウス派の教育を受けた。
最初の結婚

シギベルトの父クロタール1世はフランクの4つの王国を再統一したが、シギベルトと他の三人の息子達はそれを再び分割した。歴史家で司教のトゥールのグレゴリウスによれば、シギベルトが西ゴート王国の王女と結婚したのは、彼の兄弟が多妻婚を選んだことに対する批判であった。身分の低い女たちとふしだらな婚姻関係を持つ代わりに、シギベルトは教養があり身持ちのよい王女と結婚した。

シギベルトの弟、ネウストリア王キルペリク1世は兄の高貴な結婚の影響を受けてブルンヒルドの姉ガルスヴィント(英語版)への求婚の使者を西ゴート王国へ派遣した。トゥールのグレゴリウスは、キルペリクはブルンヒルドと兄の結婚を羨ましく思ったため結婚を申し込んだとしている。しかしながらガルスヴィントは彼に娼婦や愛人を追放するように命じ、キルペリクはすぐ彼女にうんざりしてしまった。ガルスヴィントは故郷に帰らせてくれれば結婚の時に持参した財宝はいらないとキルペリクに懇願したが、彼はそれを信じなかった[3]。キルペリクはその年のうちに愛妾の一人フレデグンドと共謀してガルスヴィントを殺害した。彼はその後すぐにフレデグンドと結婚した。

ブルンヒルドは姉の死によりフレデグンドを忌み嫌い、激しい憎悪の念を抱いた。二人の王妃は夫に武力に訴えるよう求め[4]、シギベルトは兄のブルグント王グントラムに二人の王妃の争いを仲裁するように依頼した。グントラムはガルスヴィントへ「朝の贈り物(英語版)」として与えたボルドーリモージュカオールベアルン、ビゴールをブルンヒルドに賠償として委譲すべきという判決を下した。しかしキルペリクは簡単にこれらの都市を手放そうとはせず、ブルンヒルドも姉の殺害を忘れなかった。パリ司教(英語版)ジェルマン(英語版)が両者を仲裁した。567年から570年の間にブルンヒルドはシギベルトとの間にイングンド、クロドシンド、キルデベルト(英語版)の三子をもうけた。

キルペリクがシギベルトの領地を侵略したことで和平は破られた。シギベルトはキルペリクをトゥルネーで敗った。シギベルトがブルンヒルドと子供たちと共にやって来るとパリの人々はシギベルトを征服者として歓待した。ジェルマンはシギベルトに和平を結び直しキルペリクを寛大に扱うよう説得して欲しいとブルンヒルドに書簡を送った。『ゲルマヌスの生涯』によれば、ブルンヒルドはこれを無視したとされており、事実シギベルトはトゥルネーへ向け出発した。フレデグンドは夫キルペリクに対する脅威に対し暗殺者を2人雇った。彼らはヴィトリで毒を塗った短剣(グレゴリウスによればスクラマサクス)でシギベルトを暗殺した。この時パリにいたブルンヒルドは王子キルデベルトをメッスに逃がしたが、彼女自身は捕えられルーアンに連行され、監禁された[5]
再婚

キルペリクと最初の妻アウドヴェラの息子メロヴィクは父の命令に背いて、母に会いに行くという口実のもとルーアンへ行き、未亡人となったブルンヒルドとの結婚を決めた。こうして彼は王位につく可能性を補強した。彼の義母フレデグンドは自分の息子に王位を継がせると決めており、夫と他の女の間に生まれた男子を排除していた。二人は司教プラエテクスタトゥス(英語版)に祝福され結婚したが、ブルンヒルドはメロヴィクの義理の伯母にあたるため、これは教会法に反していたとジェルマンは糾弾している[6]。キルペリクは聖マルタンの教会へ逃げ込んだブルンヒルドとメロヴィクを包囲した。最終的に彼らは和解したが、キルペリクはメロヴィクをソワソンへ連行した。

結婚を無効にするために、キルペリクはメロウィグを剃髪させ聖職に就かせようとル・マンの修道院へ送った。メロウィグはトゥールの聖マルティヌスの聖域へ逃れ(そこはグレゴリウスの教会であり、彼はこの出来事を目の当たりにすることになった[7])、後にシャンパーニュへ逃亡した。578年メロヴィクはついにトゥールへ戻ったが、そこで父キルペリクの罠に落ちた。彼は望みが断たれたと悲観し、従者に自分を殺すように頼み、従者はそれに従った[8]。キルペリクはメロヴィクの従者3人を捕らえ、拷問した上で処刑した[9]
第一摂政期

ブルンヒルドは息子キルデベルト2世の名の下にアウストラシア摂政となったが貴族たちの猛烈な反対を受け、目的を果たすまで一時的にブルグント王グントラムの宮廷へ隠棲しなければならなかった。アウストラシアを支配すると、彼女は女王として君臨した。西ゴート王国で受けた教育により、彼女は戦士ではなく行政の改革者となった。ブルンヒルドは旧ローマ街道を整備し、多くの教会と修道院と必要な要塞を建てた。また国庫を立て直して王国軍を再編成した。しかしブルンヒルドは王国の権力を押しつけ続けたため、それが緩やかなものであったにもかかわらず貴族の反感を買った。自分の立場と王権の威信を強めるために、キルデベルトを相続人のいないグントラムの跡継ぎとするように説得し、グントラムは577年キルデベルトを跡継ぎと定めた[10]。579年には故郷の王国と自国の連合のため、ブルンヒルドはわずか12歳の娘(長女)イングンドを西ゴート王国の王子ヘルメネギルドに嫁がせた。しかし、ヘルメネギルドはカトリックに改宗し、続いて起きた西ゴート王国を二分した宗教戦争で妻と共に死んだ(正確にはイングンドは東ローマ帝国軍に子アタナギルドと共に拉致され、死因は不明だが、カルタゴもしくはシチリア島で18歳で死去)。その後、イングンドがヘルメネギルドに産んだ子アタナギルドは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに到着し、東ローマ宮廷で養育された。ブルンヒルドは最も愛していた長女が産んだこの孫の身の安全に気を配り、東ローマ宮廷に対して、アタナギルドの保護と身柄の引き渡しを求める書簡を送り続けた。また、アタナギルド個人に対しても励ましの書簡を送っている。これらの書簡は、17世紀初頭にハイデルベルク大学の図書館の古文書の中から偶然発見されて日の目を見ることになり、「アウストラシア書簡」と名付けられて極めて貴重な史料の一部分を形成している。書簡の一部でもある肉親の身を案じ励ます内容から、ブルンヒルドの勇敢で男勝りという一般的なイメージからは対極的でかけ離れた、愛娘が産んだ薄幸な孫に対する深い哀憐の情を感じ取ることができる。しかし、いくらブルンヒルドが手を尽くしても合法的な西ゴート王国の王位継承権を持つこの幼子を外交交渉において極めて貴重な道具にして人質として重要視していた東ローマ帝国の意向を変えることはできず、ブルンヒルドがこの交渉に勝利することはなかった。アタナギルドは解放されることはなく、やがて東ローマ宮廷の公式記録から姿を消した。

ブルンヒルドはキルデベルトがメロヴィング時代に成年とされる13歳になる583年までアウストラシアを支配した。
グントラム王との関係


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