ブルドーザー
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この項目では、建設機械について説明しています。AMD社のマイクロアーキテクチャについては「Bulldozer (マイクロアーキテクチャ)」をご覧ください。
ブルドーザー(キャタピラー・D10N)ブルドーザー(コマツ・D61PX)後部にリッパを装着したブルドーザー(リープヘル・724)

ブルドーザー (Bulldozer) とは、土砂のかきおこしや盛土整地に用いる建設機械のこと。ブルドーザ、平土機、略してブルともいう。
解説

トラクターの前面に可動式のブレード(排土板)を装着していて、進行方向に土砂を押しだす。中には後部に土砂や岩盤を掻き起こす爪(リッパ)を装着する車両もある。

概して開発途上国ではブルドーザーの需要は高く、先進国では低い。

それにもかかわらず、強大な推進トルクを発揮するブルドーザーの開発製造にかかる技術的ハードルは低いものではないため、現在、主なメーカーは、アメリカのキャタピラー社と日本小松製作所の2社で世界市場をほぼ寡占する状態となっている[1]
歴史
名称の由来

本来の「bulldozer」という言葉は、強い雄牛(Bull)が弱い雄牛を押し退ける様子を表すものであった。

Sam Sargentと Michael Alvesによって執筆された「Bulldozers(1994年)」によれば、「1880年頃の米国における"bull-dose"の一般的な用法は、「(強要したり脅したりして)強引に推し進める」というような意味であり、牛に対してあらゆる種類の薬や罰を大量かつ効率的に与えることを意味する”bull’s dose”(雄牛に薬を与える)を語源とするスラングであった。1886年にはスペルにわずかな違いがあったものの”bulldozer”が両方を意味するようになり、19世紀末頃までに”bulldozing”とは、強引な力を使用して障害物を押し退けたり通り抜けたりすることを意味するようになった[2][3]」とある。

また、別の説として、「ブルドーザーの出現によって雄牛が居眠りするほど役目がなくなったことから、「雄牛」の”bull”と「居眠り」の”doze”を合成させて”Bulldozer”となった[4]」と説明されることがあるが、出典の根拠等が明確ではないことから、誤った解釈が広まったものと思われる。
ブルドーザーの登場

誰が最初のブルドーザーを発明したのかは定かではないが、1917年には米国Russell(ラッセル)社(除雪用車両の一種であるラッセル車の開発元(開発者であり創業者でもあるJ.H. Russellの名に由来)のカタログに、2頭引き馬車の前面にブレード(排土板)を装着したものが「Bull Dozer」という名称で掲載されていた[2][3]

1923年アメリカ合衆国のカミングスとマクロードによって、ホイール(車輪)型トラクターにブレード(排土板)を装着したものが世に登場し、同年にはLaPlant-Choate社からクローラー(履帯)型トラクターにブレード(排土板)を装着したものが登場している[2][3]

本来、「ブルドーザー」という用語は、技術的にブレード(排土板)のみを指していた。しかし、様々な企業によってトラクターとブレード(排土板)を組み合わせた形態の機械が「ブルドーザー」として販売されるようになり、特に不整地で活躍することが多い性質からクローラー(履帯)型が一般的な形態となり、これらを「ブルドーザー」と呼称することが一般化していったと考えられる。

なお、現在では、ホイール(車輪)を用いたものを「ホイールドーザー」、クローラー(履帯)を用いたものを「ブルドーザー」として分類している。
日本におけるブルドーザーの歴史小松製作所製初代ブルドーザー

日本におけるブルドーザーは、戦前から京都帝国大学で研究されていたが、ほとんど研究は進まなかった。

国内における最初の実用的な使用は、鉄道省信濃川発電所(現:JR東日本信濃川発電所)のうち千手発電所関連の工事であり、1940年(昭和15年)頃から使用された。現地責任者であった国鉄技師の三好新八は、米国キャタピラー社から何台かのブルドーザーを輸入して工事に使用した。当時、日本と米国は緊張状態にあったが、米軍に制式採用されたモデル以外は輸入可能であった。最初の運転は三好本人が行い、「マニュアルに記載の手順通り行ったところ、一発でエンジンが掛かったことが印象的であった」とのことである。また、太平洋戦争突入以降、軍から技術者が派遣され、本輸入機のスケッチが行われたこともあった。

太平洋戦争初期の1941年(昭和16年)12月23日大日本帝国海軍が米軍拠点のウェーク島を占領した際、日本軍側は米軍捕虜に200-300人の労働力提供を申し入れたが何を行うのかと聞かれ「飛行場の修理だ」と伝えると、「それなら10人程度で大丈夫だ」と答え、米軍から鹵獲して何に使うものか見当がつかなかったブルドーザー1両を米軍工兵隊員が動かして実際にそれをやってのけた[5]。当時機動部隊の参謀長であった草鹿龍之介によれば、「国産のブルドーザーはパワーもなく、しかも無理をすると履帯が切れてしまうような代物であり、詳しい事はわからないがとにかく比較にならない性能差があり、これでは戦争も難儀であろう」という感想を抱いたという[5]。また、これまで人力で行ってきた土木工事を短時間で大量に行ってしまうブルドーザーを見て海軍の関係者は、「これ程技術と作業速度に差があるなら、日本はアメリカとの戦争に負けるだろう」と悟ったと言われている[6]

このブルドーザーは後に小松製作所に送られて国産化のための研究が行なわれ、開発期間を短縮するため既に存在していたG40型ガソリン牽引車に油圧ドーザーブレードを追加したものが「小松1式均土機」(コマツブルドーザーG40)として1943年(昭和18年)に海軍設営隊に採用され、約150台が生産された[7]


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