ニューヨーク市ブルックリン区
New York City, Borough of Brooklyn
キングス郡
Kings County
旗
印章
標語: Eendraght Maeckt Maght
ブルックリン区(ブルックリンく、Borough of Brooklyn)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に置かれた行政上の5つの区の一つ。ニューヨーク州のキングス郡(Kings County)の郡域とブルックリン区は同じである。
ロングアイランド最西部に位置しイースト川、ニューヨーク港、大西洋に囲まれクイーンズ区と接する。名称は、オランダ人入植者が母国の地名を取り同地にブルーケレン(Breuckelen)という小さな町を築いたことに由来する。キングス郡はイギリス王のチャールズ2世にちなんでつけられた郡名。ちなみに、隣のクイーンズはこのチャールズ2世の后のキャサリン王后にちなんでつけられた。
1898年に行われた区画整理までは、独立した市として存在していた。ブルックリンは5つの区の中で最も人口が多く、270万人の人々が居住している。ニューヨーク市の5つの区を独立した市として考えるならば、ブルックリンはロサンゼルス市、シカゴ市に続き全米で3番目に人口の多い市となる。またキングス郡はニューヨーク州で最も人口の多い郡であり、アメリカでニューヨーク郡(マンハッタン区)に次ぎ、2番目に高い人口密度を誇っている。
マンハッタンへはブルックリン橋、マンハッタン橋、ウィリアムズバーグ橋、バッテリー・トンネルを始めニューヨーク市地下鉄でアクセスが可能。クイーンズへは地下鉄とニューヨーク市バス、ロングアイランド鉄道で、スタテンアイランドへはヴェラザノ・ナローズ橋を通り車・バスでアクセスできる。
マンハッタンとは違った独特の文化の発信地としても名高い。ブルックリン出身者は Brooklynite (ブルックリナイト、ブルックリナイツ)と呼ばれる。
歴史詳細は「ニューヨーク市の歴史」を参照
ヨーロッパ人によるブルックリンの開拓は17世紀より始まり、以来350年余りの歴史を持つアメリカで最も歴史ある地区の一つである。橋の建設や地下鉄の開設などにより19世紀よりベッドタウン化が進み、それまで独立行政を行っていた同区は1898年にニューヨーク市に併合された。1639年オランダ作成の地図。下から中央に向かって伸びる陸地がロングアイランド。その先 端に浮かぶ小さな島が現在のスタテンアイランド。二つの川に挟まれた中央右の島が現在のマンハッタン。1766年のキングス郡の地図。左上に見えるマンハッタンは開発が進んでいるのに対しキングスには農地が多い。また埋め立てがないため海岸線が現在に比べ凸凹である。 オランダはロングアイランドの最西端に入植した最初のヨーロッパ人であり、それまではインディアンのレナペ族が同地に居住していた。オランダの地名ブルーケレン(Breuckelen)より名づけられた"ブルーケレン入植"はニューネーデルラントの一部を成していた。オランダ西インド会社を中心に同地に6つの街を築いた。 1664年、第二次英蘭戦争によりニューネーデルラントがイングランドによって征服されるとロングアイランド西部はイングランドの支配下に置かれた。同戦争で活躍した海軍の指揮官を務めたヨーク公(後のジェームズ2世)を称えニューネーデルラントはニューヨークと名を変え、現在のブルックリンを含むロングアイランドはニューヨーク植民地の管轄化に置かれた。 1683年11月1日、イングランドはロングアイランド最西部の南端に置かれた上記の6つの街をキングス郡として統一した。この頃のニューヨーク植民地は12の郡を内包しておりキングスはその一つとなった。これが現在のブルックリン地域初めての地方行政の誕生であり、後の同地区の行政的アイデンティティも形成することとなった。 ペトルーンと呼ばれる領主的権限を持つ大地主や小作農民が同地にはいなかったことから13植民地の中でも同地区の奴隷の使用は盛んであった。 1776年8月27日、ロングアイランドの戦い(別名ブルックリンの戦い)が行われる。この戦いは植民地側が独立を宣言した後に行われた最初の戦闘であり、またこの独立戦争最大規模の戦闘になった。イギリス軍はジョージ・ワシントン率いる大陸軍を現在のグリーンウッド墓地、プロスペクト・パーク
6つのオランダ街
グレーヴセンド
ブルックリン: 1646年、オランダの地名ブルーケレンの名を使い開拓。
フラットランズ: 1647年、オランダの地名アメルスフォールトからニューアメルスフォールトとして開拓。
フラットブッシュ: 1652年、ミッドウォートとして開拓。
ニューユトレヒト: 1657年、オランダの地名ユトレヒトから取り開拓。
ブッシュウィック: 1661年、ボズウィックとして開拓。
イングランドの統治
アメリカ独立戦争
この戦いで惨敗を喫してしまったワシントンは指揮官としての資質を問われることもあったが、僅か一日で全兵士をイーストリバーを越えて撤退させたことは多くの歴史家によって高く評価されている。
ブルックリンを含むロングアイランドはほぼ全てがイギリスの指揮下に置かれ、現在のニューヨーク市地域は瞬く間にイギリスの北米指揮の本拠地となった。イギリスとのビジネス関係からキングスにはイギリス支持派のロイヤリストがおり、彼らは大陸軍と共に撤退や避難はしなかったためイギリスは彼らのサポートも受けることが出来た。しかしワシントン率いるアメリカ独立戦争の情報戦略が功を奏し、徐々にロイヤリスト達は植民地側へと付くようになっていった。
イギリスはウォーラバウト港に囚人船を持ち込み、ここに収容され死んでいったアメリカ人パトリオットの人数は独立戦争の戦闘で死んだ数よりも多い。