ブルターニュ
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その他の用法については「ブルターニュ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ブルゴーニュ」とは異なります。

Bretagne
Breizh / Bertaeyn
歴史的な州



紋章

標語: Kentoc'h mervel eget bezan saotret
不名誉よりも死を
:なし (法令上)
事実上 "Bro Gozh ma Zadou" (フランス語)
我が父祖の地

現在属する国 フランス
主要都市リスト

ナント

レンヌ

ブレスト

サン=ナゼール

カンペール

ロリアン

ヴァンヌ

サン・マロ

サン=ブリユー

面積
 ? 合計34,023 km2
人口(2010)
 ? 合計4,475,295人
等時帯UTC+1 (CET)
 ? 夏時間UTC+2 (CEST)

ブルターニュ(フランス語: Bretagne [b??.ta?] ( 音声ファイル); 英語: Brittany, Little Britain; ブルトン語: Breizh [br?js] ブレイス; ガロ語: Bertaeyn [b??.ta??])は、フランス北西部にある地域。英語ではブリタニー(Brittany)[1]、リトルブリテン(Little Britain)とも言う[2]。「リトルブリテン」という呼称は「グレートブリテン」との区別に基づく[2]ブルトン語を意識した際には、ブレーズ という名称も用いられる。

かつてはブルターニュ王国、そしてブルターニュ公国という独立国だったが、1532年にフランス王国に併合されとなった。ブルターニュは6つあるケルト諸語圏の1つとみなされている[3][4][5][6]。時には、現在のブルターニュ地域圏と区別する目的で「歴史的なブルターニュ」(Bretagne historique、ブルターニュ・イストリック)と呼ばれることもある。

ブルターニュは、フランス北西部、ヨーロッパ大陸の北西に突き出た半島にある。北はイギリス海峡、西はケルト海大西洋、南をビスケー湾と接している。面積は34,023 km2 (13,136 sq mi)。ブルターニュとみなされる県が5つある。西のフィニステール県、北のコート=ダルモール県、北東のイル=エ=ヴィレーヌ県、南東のロワール=アトランティック県、ビスケー湾に面したモルビアン県である。

1956年、これらの県を集めフランスの地域圏がつくられた[7]。ブルターニュ地域圏は、ブルターニュとみなされる5つの県のうち4つで構成される(歴史的なブルターニュの80%を占める)。一方でかつてのブルターニュの一部であるロワール=アトランティック県はペイ・ド・ラ・ロワール地域圏に含まれることになった。この地域圏編成は定期的に論争の種となっている。ブルターニュ王国、ブルターニュ公国、かつてのブルターニュ州、そして現在のブルターニュ地域圏は、ローマ時代にアルモリカとして知られた地方の西部分にあたる。

2010年の調査で、歴史的なブルターニュ人口は概算で4,475,295人であった。これらのうち71%の人口がブルターニュ地域圏で暮らしている。残り29%はロワール=アトランティック県に暮らす。2008年時点の都市圏はナント都市圏(854,807人)、レンヌ都市圏(654,478人)、ブレスト都市圏(311,735人)であった[8]
語源

ブルターニュ(Bretagne)という名称は、ブルトン語でのBreizh、ガロ語でのBertaeynと同様に、「ブリトン人の地」を意味するラテン語のブリッタニア(Brittania、時にはブリタンニアBritannia)からきている。この名称は1世紀以降ローマ人がグレートブリテン、より具体的にはローマ支配下のグレートブリテン島に対して使用した。ブリッタニアとは古代ギリシャ語のΠρεττανικη (プレッタニケ、Prettanike)またはΒρετταν?αι (ブレッタニアイ、Brettaniai)からきている。この名称は紀元前320年代にブリテン諸島を旅したマッサリア(現在のマルセイユ)出身の探検家ピュテアスが用いた。

ローマ人はブルターニュをアルモリカと呼んだ。アルモリカとは、おそらくガリア語で「海に面した」を意味するaremoricaから派生した名称である[9]。他に、レタウニア(Letauia、英語ではLitavis)は12世紀まで使われていた。おそらく「広くて平坦」または「拡大する」を意味しており、ブルターニュのウェールズ語名Llydawの語源となった[10]

西ローマ帝国崩壊後、多くのブリトン人がアルモリカに移住し、アルモリカはブリッタニアと呼ばれ始めた。しかし、アルモリカの名は数世紀間残り、5世紀まで完全に消滅することはなかった[11]。後世になって、ジェフリー・オブ・モンマスのような作家たちがブリテンとブルターニュを区別するため、ブルターニュを小ブリタンニア(Britannia minor)、ブリテンを大ブリタンニア(Britannia major)という名称で呼び始めた。
歴史詳細は「ブルターニュの歴史」を参照
先史時代ブルターニュにいたガリア5部族カルナック列石

ブルターニュに人が定住したのは旧石器時代後期以降である。最初の定住者はネアンデルタール人だった。この集団は非常に少なく、西ヨーロッパ全体で発見されている他のネアンデルタール人たちと酷似していた。彼らだけが持つ特徴は独特の文化で、コロンバニア文明と呼ばれた[12]。世界で最も古いかまどがフィニステール県のプルイネックで見つかっている。それは45万年前のものである。

ホモ・サピエンスがブルターニュに定住したのは紀元前35000年代である。彼らはネアンデルタール人と交代したか吸収したかして、シャテルペロン文化またはマグダレニアン文化(en)と似た物づくり(en)を地元で生み出した。氷期後期が終わると、温暖になった気候により一帯に樹木が生い茂った。当時、ブルターニュには比較的大きな人口集団が暮らしており、彼らは狩猟採集の遊牧生活から、土地に定住した農民への生活様式に変わろうとしていた。紀元前5000年代、南や東からの移住者たちが農業を導入した。しかし、ブルターニュで新石器時代の革命は起きなかった。なぜなら人口の急激な変化はあったが移住は緩やかで、技術の交換がなされていたからである。

新石器時代のブルターニュは巨石建造物が特徴である。時には巨石文明の核となる地方ともみなされている[13]。最古の記念物であるケアンは部族首長の墓であり、かつ列石である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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