ブルターニュ公
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ブルターニュ君主一覧ではブルターニュの統治者について列挙する。統治者達は時代ごとに様々な称号を有していた。彼等は、ある時は選出され、またある時は征服や謀略、世襲権によって地位を獲得した。世襲の公は時にはブルターニュ女公の称号を有する女性の統治者であった。公国の主要な都市ならびに地域は伯によって統治されており、彼等はしばしば公との争いで自らの地位を手に入れたり、自身が公になったりした。

ローマ帝国の衰退期にガリアにおける最初期のブルトン人の支配者はコルヌアイユ(フランス語版)及びドゥムノニア の小王国の"王"と呼ばれていた。これらの何人かの王はアルモリカ半島のあらゆるブリトン住民に対して支配権の形を有していたらしく、リオタムスは年代記家のヨルダネスによってブルトン王(英語版)と呼ばれている。けれどもブルターニュ全体の統治者は明らかではなく、現地の伯の封土に分割されていた。

これらの幾つもの小国に分裂していたブルターニュを840年代に統一したのがノミノエ(フランス語版)であり、彼が統一ブルターニュ王国(フランス語版)の初代王となった(実質的な王は息子のエリスポエ(フランス語版)が最初である)。王国は領域を拡大したものの、10世紀ヴァイキングノルマン人)によって国土が殆ど侵食されるに至った。

この危機的状況を打開したのがアラン2世(フランス語版)である。彼は939年にトランの戦い(フランス語版)でヴァイキングを撃破して祖国を解放したが、この時の勝利が ブルターニュ公国建国の起源であり、それはブルターニュとノルマンディーの国境であるクエノン川(フランス語版)にて建国された[1]942年にアラン2世は西フランク国王ルイ4世に臣従を誓ったものの、公国は1123年フランス国王ルイ6世肥満王ナント司教を承認するまでフランス王家が関心を得るところではなかった[2]。けれどもその他のブルターニュ公は、1202年アルテュール1世が国王フィリップ2世尊厳王を自らの君主と認めるまでアラン2世の臣従の儀を繰り返した[3]

領域は大概、公国と呼ばれ、その統治者は独立した主権を有する公と見做されていた。けれどもある歴史家は、12世紀半ば以前のブルターニュ公はよくフランス国王からは伯と呼ばれており、当時、フランス王国は1つの伯領に過ぎないとの見方をしていたとの見解を取っている[要出典]。1297年ブルターニュはフランス貴族(フランス語版)における公爵に昇格したとしている[4]。この見解はシャルル8世温厚王並びにルイ12世人民王の2代に渡る王が、公国並びに 両王と立て続きに結婚したアンヌ・ド・ブルターニュの権利に近付いたこととは一致しない。大部分の歴史家は、上記の両王の時代及び公位が1532年アンリ2世のもとに組み込まれるまでブルターニュ公国はフランス王権から独立していたと見做している。
初期支配者

コナン・メリアドック
(フランス語版) (4世紀) ? 伝説上のブルターニュ初代君主

ブディク2世(英語版) (6世紀初頭) ?アルモリカ

ワロック2世(フランス語版) (6世紀後半) - ブロ・ワロック王(フランス語版)

ユディカエル(フランス語版) (590頃-657年) - ブリトン上王、ドゥムノニア王; ドゥムノニアとブロヨロス(フランス語版)のブリトン人の王国を統一; ダゴベルト1世とエリギウス(フランス語版)を承認。

モルマン(フランス語版) (在位814年?818年)- 自らが封臣として仕えていたカール大帝814年の死去に伴いブリトン人貴族からブルターニュ王と呼ばれた最初の君主。

ルイ敬虔王下のフランク王国統治時代 (819年-822年) - モルマンはフランク王国による支配に対して反乱を起こしたもののルイ敬虔王に敗北した。フランク統治時代のブルターニュは同時にネウストリア辺境伯領(フランス語版)に脅かされていた。

ヴィオマルク(フランス語版) (在位822年?825年) ? ブリトン人復権のためのフランク王国に対する反乱を成功に導いた;ブルターニュ辺境伯領のナント伯(フランス語版)ランベルト1世(フランス語版)に殺された。

ブルターニュ王「ブルターニュ王国(フランス語版)」も参照

ノミノエ(フランス語版) (ネヴェノエ) (在位841年?851年)、ヴァンヌ伯(フランス語版)、初代ブルターニュ公

伝統的には伯領の父とされる

皇帝ルイ敬虔帝の「巡察使(英語版)」


エリスポエ(フランス語版) (在位851年?857年)、ヴァンヌ伯、ノミノエの息子。公として統治し、それから王として統治

教会の祭壇にて陣内にいた従兄弟のサロモン(フランス語版)に暗殺された。

娘はグルヴァント(フランス語版)と結婚している。


サロモン(フランス語版) (サラウーン) (在位857年?874年)、レンヌ伯(フランス語版)兼ナント伯(フランス語版)

エリスポエ(フランス語版)に対する反乱を導く

公として統治し、それから皇帝から下賜された王冠と紫色のローブを基に王として統治。アラン1世(フランス語版)まで統一したブルターニュを統治した最後の君主

トゥール大司教座(フランス語版)からの独立を得んとしているドル司教区のために教皇にパリウムを授与せんと試みた

義理の息子であるヴァンヌ伯 パスクヴェテン(フランス語版)並びにエリスポエ(フランス語版)の義理の息子であるグルヴァント(フランス語版)の一派によって暗殺された

聖徒の列に加えられて殉教者の段階まで上げられた。



内戦及び第1次ヴァイキングによる侵攻(874年 ? 888年)期間の分割統治

南ブルターニュ

パスクイタン(フランス語版)(パスクヴェテン) (在位874年?877年)、ヴァンヌ伯、グルヴァント(フランス語版)と同時代で南ブルターニュを統治

大アラン(フランス語版) (在位877年-888年) ? 兄弟であるパスクイタンの後を継承。ユディカエル(フランス語版)と同時代で南ブルターニュを統治。アラン1世(フランス語版)を参照のこと。


北ブルターニュ

グルヴァント(フランス語版) (在位874年?877年)、パスクイタン(フランス語版)と同時代で北ブルターニュを統治;

ユディカエル(フランス語版) (在位877年?888年)、グルヴァルトの後を継承、大アラン(フランス語版)と同時代で北ブルターニュを統治。アラン1世 (ブルターニュ王)(フランス語版)を参照のこと。



アラン1世 (ブルターニュ王)(フランス語版)、または大アラン

(在位877年 ? 888年)、パスクイタンの後を継承して877年から888年にかけてユディカエルと共同統治。

(在位888年 ? 907年)、ユディカエルの死によって単独の公として統治。

皇帝カール3世肥満王より王号ないし'rex Brittania' を授けられる

最後のブルターニュ王


第二次ヴァイキングの侵攻ならびに占領 (907年-937年)

アラン1世の女婿であるポーエル伯(フランス語版)マテュエドイ(フランス語版)とその息子であるアラン2世(フランス語版)はブルターニュから逃亡してイングランド国王アゼルスタンのもとで亡命生活を送った。マテュエドイは「亡命上の王」であるが戴冠したことはなかった。


グルマエロン(フランス語版)、コルヌアイユ伯(フランス語版) ( 907年以降、王国の後見人として統治)

ブルターニュ公「ブルターニュ公国」も参照
ナント家

名前肖像画生誕結婚死去
アラン2世
狡猾公

(Alan al Louarn)
936年/938年?952年919年以前
ポーエル伯マテュエドイとアラン1世の娘の子。(1) ロシーユ・ダンジュー
943年
1女
(2) ロシーユ・ド・ブロワ
949/51年以前
1男952年頃
ナント
約33歳没
ドロゴ
(Drogon)
952年?958年949/52年頃
アラン2世の1人息子未婚958年頃
アンジェ
5?9歳没
オエル1世
(Hoel Ian )
960年?981年930年頃
アラン2世とジュディトの庶子未婚981年頃

グエレス
(Gwereg)
981年-988年933年頃
アラン2世とジュディトの庶子アランブルジュ・ダンスニ
981年以降
1男988年頃

アラン
(Alan)
988年-990年981年頃
グエレスとアランブルジュ・ダンスニの1人息子未婚990年頃
9歳没

レンヌ家

名前肖像画生誕結婚死去
コナン1世


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