ブルターニュの歴史
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1789年に描かれたブルターニュの地図

ブルターニュの歴史(英語表記:history of Brittany、フランス語表記:Histoire de la Bretagne)は、ブリトン人文化と創造、中世初期に成立したアルモリカの王国とその後のブルターニュ王国(フランス語版)時代、ブルターニュ公国フランスに併合されてからの地方行政区画としての歴史を含む。
目次

1 ブルターニュ成立以前

1.1 鉄器時代

1.2 ローマ統治時代


2 中世

2.1 初期

2.2 中世後期


3 近代

3.1 初期

3.2 革命以後


4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

ブルターニュ成立以前
鉄器時代

古代ローマ時代の記録によると、ウェネティ族(Veneti)、アルモリカニ(Almoricani)、オシスミ(Osismi)、ナムネテス(Namnetes)、コリオソリテス(Coriosolites)といった多くの種族がいたことがわかっている。ストラボンポセイドニアスは、ベルガエ族(ガリア北部にいた種族)に従属していたアルモリカニ族の記述をしている。

アルモリカニの金貨は広く流通し、ラインラント地方ですら発見されている。

塩田が北アルモリカの広域にあった。エビヘンスでは、2メートルほどの一つの窯から概算で40から55キロの塩が作られていたという。
ローマ統治時代

紀元前56年、一帯はユリウス・カエサル指揮下のローマ軍によって征服された。ウェネティ人貴族らは殺されるか奴隷として売り払われた。ローマ人は占領地を『アルモリカ』(ケルト語の「海岸地域」を意味する言葉をラテン語に当てはめた)と呼び、ガリア・ルグドゥネンシス(Gallia Lugdunensis)の一部とした。現在あるコート=ダルモール県(Cotes-d'Armor)の名は古代の名前アルモリカにちなんだものである。ディオクレティアヌス帝の改正後、地域はディオケセス・ガリアルム(dioceses Galliarum)の一部となった。

3世紀、バガウダエ族が勢いを増し、社会不安と人口減少を引き起こして、多くの村々が破壊された。町があったという場所には、人口減少を物語る厚い黒土の層が見つかっている。コンスタンティヌス1世(307年-350年)時代、ルネサンス時期をもたらした。おびただしい硬貨が鋳造された。トラクトゥス・アルモリカヌス(tractus Armoricanus)時代には、ブレストアヴランシュ、ル・ヨウドのような新たな砦が築かれた。4世紀頃、ヴェネティとオシスミ領内でマウリタニア軍が現れるなど、地方で合同の動きが活発となった。フランク化したラエティ族はレンヌに出現した。キリスト教化は通常4世紀後半と言われる。しかし物的証拠はまれである。
中世
初期

ローマ帝国支配が後退した後、数名の作家は、アングロ・サクソン人やスコティ人の侵略から逃れたブリトン人たちがアルモリカへやってきたと指摘している。しかし、現代の考古学はローマ時代からグレートブリテン島(フランス語ではGrande-Bretagne(グラーンド・ブルターニュ)となる)からの移民が始まったとしており、およそ3世紀後半からだという。これらのブリトン人は地域に現在の名前とブレイス語を伝えた。Brezhonegは、ウェールズ語コーンウォール語の姉妹言語である(ブルターニュとは、英語で小さなブリテンLittle Britainを指すことで知られる。ロンドンにある通りの名前リトル・ブリテンは、かつてブルターニュ公国の大使館があった場所である)。

初期のブレイス語の文書は、590年からの日付の植物学論文である(対比すると、フランス語での初期の文書は843年からである)。

伝説上のローアン家創設者コナン・メリアデックは中世のウェールズでの記述に登場する。それによると、コナンはウェールズ人傭兵のブルターニュ入植を指揮し、彼らをブルターニュ土着民族の女たちと結婚させた。しかし、自分たちの言葉の純粋性を保つため、女たちの舌を全て切ってしまっていたという。歴史家ジェフリー・オブ・モンマスは、この伝説でブルターニュにウェールズ語のLlydaw(元々はlled-taw 半分は口がきけない、という意味)が残ることの説明がつくとしている。

中世初期、ブルターニュは三つの王国に分断されていた。ドムノニア(英語版)、コルヌアイユ(英語版)、ブロ・ワロック(英語版)である。すぐに三つの王国は、ブルターニュ公国に併合された。

最初の合同したブルターニュ王国は、845年にブルターニュ公ノミノエ(Nominoe)によって建国された。この時、ブルトン軍はフランク王シャルル2世勢力をバロンの戦い(英語版)(ルドン近郊のブルターニュ東部、国境付近)で打ち破った。

フランク軍は再び851年にジャングランの戦い(英語版)でブルターニュ公エリスポエ(Erispoe)軍によって敗退を喫した。こうしてシャルル2世はブルターニュの独立を承認したのである。
中世後期 ブルターニュとフランスの国境に沿って建設された城砦群

ブルトン人は、1173年から1174年にかけ、イングランドヘンリー2世に対する反乱を起こした。ヘンリーの息子でブルターニュ女公コンスタンスを妻とするジェフリー(ブルターニュ公ジョフロワ2世)は、ブルターニュ公国をイングランドに併合しようとする父親の試みに抵抗した。ジョフロワ2世の嫡子アルテュールはさらに、叔父ジョンに暗殺されるまでイングランドと対立した。

1185年、ジョフロワ2世は領土の細分を禁じる文書に署名した。そのために、ブルターニュの封建構造が強まったのである。

1213年、ブルターニュへ狙いを定めたフランス王フィリップ2世は、カペー家縁戚のドルー家出身のピエール・ド・ドルー(後のピエール1世)を公国の管理者兼彼の嫡子ジャンの指導者として送り込んだ。ピエールは、アルテュールの異父妹アリックスの夫で、女公コンスタンスの婿であった。ピエールの代から、ブルターニュ公の紋章にイタチ(アーミン、シロテン)が採用され、フランスへ従順することで領土の独立性がはかられた。

ブルターニュ継承戦争1341年から1364年に起こった。ブルターニュ公ジャン3世が子供の無いまま死去すると、彼の異母弟ジャン・ド・モンフォール(イングランドが支援。フランス側ではブルターニュ公位を認めていないので、彼の息子をジャン4世とする)と、彼の姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌ・ド・パンティエーヴル(夫シャルル・ド・ブロワフィリップ6世の甥)との間で争われた。


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