ボルゴーニャ(ブルゴーニュ)家
王朝
国 ポルトガル王国
領地ポルトガル
主家カペー家系ブルゴーニュ家
創設1093年 (931年前) (1093)
家祖ポルトゥカーレ伯エンリケ
最後の当主フェルナンド1世(美男王)
現当主断絶
滅亡1383年
分家
アヴィス家
ヴィゼウ家
ブラガンサ家
ブラガンサ=コブルゴ家
ブルゴーニュ王朝(ブルゴーニュおうちょう)は、1143年から1383年までポルトガルを支配したポルトガルの歴史上最初の王朝である。ブルゴーニュ(Bourgogne)はフランス語名であり、ポルトガル語に基づいてボルゴーニャ王朝(Dinastia de Borgonha)とも呼ぶ。王朝の名前は、創始者であるアフォンソ1世の父親アンリがブルゴーニュ出身であることに由来する[1]。カスティーリャ王国およびレオン王国の王朝にも同じくブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝と呼ばれるものがあるが、起源が異なる。
歴史
王国の成立オーリッケの戦い
ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャ=レオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した[要出典]。
アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した[3]。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した[4]。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]。ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[5]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年にローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][5][6]。 アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[5]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[7]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年のアルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[8]。
レコンキスタ