ブルグント人(ブルグントじん、英語: Burgundians, フランス語: Burgondes, ドイツ語: Burgunden, ラテン語: Burgundiones)は、北ヨーロッパのスカンジナビア半島からボーンホルム島(Bornholm、古ノルド語による古い表記ではBurgundarholmr)、後にヨーロッパ大陸へと移住した東ゲルマン諸語に属するゲルマン系である。フランスではブルゴーニュ人、英語読みと日本語の表記ゆれではブルグンド人と呼ばれる。
『Torsteins saga Vikingssonar』(バイキングの息子トルスタインの冒険談)でヴェセティ(Veseti)が住んでいた島が「ブルグントの小島(holm)」、すなわちボーンホルム(Bornholm)である。また、アルフレッド大王によるオロシウス(Orosius)著書の古英語翻訳では「ブルグントの土地」(Burgenda land)という名前を使っている。スウェーデンの詩人であり初期の神話学者でもあるヴィクトル・リュードベリ(Viktor Rydberg、1828年-1895年)は、中世初期の文献『Vita Sigismund』に基づき、ブルグント人は自らの起源がスカンジナビアであると口承していた、と述べている。
黎明期
ブルグント人の起源ボーンホルム島の位置
ブルグント人がスカンジナビア起源であるとする伝承には、地名や考古学上の証拠による裏付けがあり[1]、その伝承が正しいと考える人も多い[2]。タキトゥスの著作を含む初期のローマ文献は、スカンジナビアについて考えもしなかったためか、ブルグント人が何処からやって来たのかについて、何も語られていない(タキトゥスはスカンジナビア民族のスイオーネス族(Suiones)については言及している)。ブルグント人が初めて登場するローマ文献によると、彼らはライン川の東に居住していた[3]。初期のローマ文献では、ブルグント人は他の東ゲルマン諸民族の1つに過ぎないと考えられていた。
300年頃、「ブルグント人の島」の意味する名前を持つボーンホルム島から突如人々の姿が消えた。ほとんどの共同墓地が使われなくなり、少数のいくつかの墓だけが使われるようになった[4]。
369年、ローマ皇帝ウァレンティニアヌス1世は、他のゲルマン民族(アラマン部族同盟)との戦争で、ブルグント人の支援を受けた[5]。6世紀中頃の ゴート族の歴史家ヨルダネスによると、この時代のブルグント人はヴィスワ川流域に住んでいたらしい。アラマン部族同盟との戦争後、しばらくした後、ブルグント人はゲピード族の王ファスティダ(Fastida)に敗北し、ほぼ全滅した。
その約40年後、ブルグント人は再び登場する。406年から408年にかけて、西ローマ帝国の将軍スティリコが西ゴート族のアラリック1世との戦いのための兵を引いたのを機に、北の部族がライン川を越えてローマン帝国の領域に侵入した(ゲルマン民族の大移動)。その中にはアラン人、ヴァンダル族、スエビ族、そしてブルグント人がいた。ブルグント人は西方に移住してライン谷に定住した。 ブルグント人は、東部地域のどこかで、本来の多神教 当初ブルグント人はローマ人と険悪な関係にあった。ローマ帝国によって他の民族を守るために利用された一方で、辺境地域に侵入し彼らの影響力を広げていった。
キリスト教への改宗
ローマ人との初期の関係
ブルグント人の王国
第一ブルグント王国(英語版
フォエデラティ(ローマ帝国の同盟者)としての新しい地位にもかかわらず、ブルグント人はローマのガリア・ベルギカ北部地域を襲撃し、436年にローマの将軍アエティウスがフン族の傭兵を呼び入れると、冷酷にもそれらの地域を滅ぼした。437年、フン族の傭兵は、ボルビトマグースやヴォルムスといったケルト系ローマ人定住地の首都とともにラインラント王国を滅ぼした。