アーデルハイト・フォン・ブルグント
Adelheid von Burgund
イタリア王妃
東フランク王妃
神聖ローマ皇后
オットー大帝とアーデルハイトの像、マイセン大聖堂
ブルグントの聖アーデルハイト
聖アーデルハイト、ラーフェンスブルク(ドイツ語版)のヴァイセナウ教会(Klosterkirche Weisenau)内、聖歌隊席の装飾
列聖日1097年
列聖決定者ウルバヌス2世
記念日12月16日
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マクデブルク大聖堂広場の「オットー大帝の道(Weg der Ottonen)」にあるアーデルハイトを記念した敷石
アーデルハイト・フォン・ブルグント(Adelheid von Burgund, 931/932年 - 999年12月16日)は、イタリア王妃、東フランク王妃、そして最初の神聖ローマ帝国皇后。カトリック教会の聖人。オットー1世大帝の2番目の妃で、皇帝オットー2世の母親、皇帝オットー3世の祖母である。 ブルグント王でイタリア対立王でもあったルドルフ2世と、その妻でシュヴァーベン公ブルヒャルト2世の娘であるベルタの間の娘として生まれた。947年12月12日、15歳で父のイタリア王位をめぐるライバルだったボゾン家の子息ロターリオ(ロテール)2世に嫁いだ。この縁組はルドルフ2世とロターリオの父であるプロヴァンス王ユーグの間の講和の一環だった。 ロターリオは950年に急死し、イタリア王位を襲ったのはイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ(2世)だった。聖人暦によれば、ロターリオはベレンガーリオに毒殺されたとされる。ベレンガーリオは自らの権力固めのために、自分の息子アダルベルト2世をイタリア王位の相続権を持つ前王妃アーデルハイトと結婚させようとした。アーデルハイトがこれを拒むと、ベレンガーリオは彼女をコモの城に4ヶ月間幽閉した。王妃は幽閉先を逃れてカノッサ伯
生涯
窮地に陥ったアーデルハイトは、東フランク王オットー1世に使者を送り、救援を求めた。オットー1世は951年にイタリア遠征を行ってベレンガーリオ父子を追い出し、救出されたアーデルハイトはパヴィーアでオットーと結婚した。
953年、オットーと先妻エドギタの間の一人息子リウドルフが父に対する反乱を起こして失脚すると、その没収された所領は全てアーデルハイトの所領とされた。962年2月2日にオットーが教皇ヨハネス12世によってローマ皇帝の帝冠を授けられた際、極めて異例のことながら、アーデルハイトも夫の戴冠式において皇后として戴冠した。966年、アーデルハイトはオットー大帝の3度目のイタリア遠征にも同行した。
973年に夫と死別すると、アーデルハイト所生のオットー2世が後を継ぎ、彼女はしばらく皇帝の母后として宮廷で大きな影響力を誇った。