ブリーチング
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「ブリーチング」のその他の用法については「ブリーチ」をご覧ください。
1625年のフラマン人の男児を描いた肖像画。ドレスのスカートはどちらにもタックがはいっているため、身体が大きくなってもゆとりがある。髪型と帽子は明らかに男性のもので、剣(または短刀)をはき、歯育のための赤い珊瑚のネックレスをしているボストンの男児と(おそらく)女児、1755-1760年ごろ

ブリーチング (Breeching) とは、一定の年齢を迎えた男児がはじめて半ズボン(ブリーチズ)や長ズボンを履く儀式または習慣のことを言う。 16世紀半ばから[1]19世紀後半または20世紀はじめにかけて、西欧社会における男児はおよそ2歳から8歳になるまではガウンやドレスを着ており[2]、ブリーチズを履く習慣がなかった(アンブリーチ)。比較的細かな違いとはいえさまざまな様式があり、現代の美術史家はそのコードにしたがって肖像画に描かれた子供の性別をみわけることができる。

ブリーチングは男子にとって重要な通過儀礼であり、周囲の人は大いに期待してそれを待ち望むとともに、実際にブリーチングを迎えるときにはささやかな宴をもよおして祝うものだった。男児の親がそれまで以上に子育てに関わる契機になることも多かった[3]
由来

男児が女児と同じようなドレスを着ていたことの由来ははっきりしていない[4]。しかし例えば、トイレの躾のため(あるいはその躾まえだから)と説明されることはある[5]。かつてのブリーチズやトラウザーズは金具の留め方も複雑であり、おそらくそれを容易に脱ぐことができる年齢に達した男児がはじめて履くものだった。およそ1550年頃までは、たいていの成人男性があらゆる場面で種々の着丈の長いローブを身に着けていた。そのため男児が同じような装いをしていても、それが何か固有の現象であるかのようには言われなかった。ドレスは身体が大きくなってもすぐ着られなくなるわけではなく、階級をとわずに衣服が現代よりはるかに高価であった時代には重宝された。分別のつく年齢(英語版)はふつう7歳前後と考えられており、この年齢になった男児はおよそどの時代でもブリーチングを済ませていた。スペイン王フェリペ4世の息子であるアウストリア公バルタサール・カルロスの肖像画は多く残っているが、6歳頃のものはブリーチズを履いた姿で描かれている。

労働者階級の子供にとっては、現代の恵まれた環境にある子供と比べてわかっていることが少ないとはいえ、ブリーチングが彼らが労働者としての人生を歩みはじめることを意味したことに違いはない。1761年の小説『トリストラム・シャンディ』には主人公が半ズボンを履くことをめぐって両親が意見をたたかわせる場面があるが、このことはこの儀式をいつおこなうかがだいぶ恣意的であったことを示唆している(この小説では、息子がブリーチングを行う年齢を迎えたと主張したのは父親のほうであった[6])。17世紀のフランスの僧でありその回想録で知られるフランソワ=ティモレオン・ド・ショワジは、18歳になるまで女性の服装をしていたと考えられている。
祝宴

19世紀後半には、新しいズボンを履いた男児とたいていはその父親が、一緒に記念写真を撮ることがよくあった。男児は新調した服を着て近所のひとに見せてまわり、ささやかな祝儀をもらうこともあった。男児だけでなく母親の友人たちも集まって、男子が成長した姿を鑑賞するのであった。アン・ノースという未亡人が、父を失い、気もそぞろの息子に送った1679年の手紙には、孫のブリーチングのことが詳細に書かれている。孫がそれまで着ていた服のことを、このアン・ノースはコート(coats)といっている[7]
ブリーチングイングランドの男児(1670年)ジョシュア・レノルズ『無垢の時代』(1780年代)

男児にとっても女児にとっても、成長するとまずその衣服の丈が短くなる(shortcoated)、あるいは赤子のころから着ている足よりも長い丈の衣服を着なくなる。この丈の長い服は、現代でも洗礼服(英語版)としてその名残がある。歩き始めたばかりの幼児が着るガウンは、肩のところに布状のほそい紐やかざり紐がついており、大人はこの手引き紐を操って幼児の歩行を支えていた[8]

この段階を過ぎても、近世ヨーロッパでは、富裕層が注文してつくらせるような肖像画に描かれる子供であれば、正確にそれが誰かはわかっていなくとも、性別を判断することはそれほど難しくない。一方でいわゆる風俗画では幼い子供はよほど大きく描かれないかぎり細部まで描きこまれることはなく、画家も絵の中に子供の性別を明らかにするような道具をわざわざ描いたりしないものである。労働者階級の子供はおそらく豊かな家柄の子供に比べれば、どちらの性別でも着るような服をおさがりで着ることが多かった。肖像画における服の色彩をみれば、大人同様にざっくりとした性別の判断基準となる。女児であれば白か淡い色合いで、男児であれば赤などもっと濃い色になる。おそらくこの傾向は当時の風俗を完全に再現しているわけではないが、髪型の違いや、胸元、のどや首、腰、そして袖口のつくりの違いなどはだいぶ正確だといわれている。

19世紀になると、おそらく子供時代の描かれ方が感傷的になるためだが、男児か女児かを服装をみて判断することは難しくなる。髪型は依然としてもっともわかりやすい手がかりであるものの、それも母親次第といえる。この時代になると、ブリーチングが儀式として残る地域でもその年齢は2歳か3歳ごろまで低くなる。ほとんど時代を通じて男児は髪が短く、まっすぐに下ろすことがふつうである。一方で女児は髪が長く、19世紀はじめにはとくに肖像画のモデルになるような特別な場合には大人のように髪を「アップ」にすることもあった。この時代、髪をアップにすることそれ自体が思春期の女児にとっては重要な通過儀礼であり、社会に「出ていく」ことの一環であった。もっと幼い女児は常に長く下ろすか、髪を編んでいる。時として、男児の帽子の下から長いカールした髪が覗いていることもある。男児でもっとも多いのは横分けで、女児の場合は真ん中分けである。

女児のボディス(胴着)は、少なくとも上等のものであれば、大人が着る服と同じつくりであり、広い襟ぐりのものを着てネックレスをすることが一般的であった[9]。男児は、常にというわけではないがほとんどの場合、首のところまでつまった、正面でボタン留めになっている前開きのドレスを着ていた。これは女児には稀な特徴である。ベルトもすることがふつうで、女性のドレスはV字ウエストが一般的であった時代には幼い女児の服にもよくこのデザインがみられたが、男児にはない。首元や袖口にリネンやレースを使うことは、男女ともに、大人の服から取り入れたものである。肖像画に描かれる服がけして日常的な服装ではなかったことは間違いないが、かといって一番良い服を着ていたかどうかも確かではない。

ブリーチングを迎える前の貴族の子息が、ベルトに剣や短刀をはいている例もみられる。シェイクスピアの『冬物語』に登場するシチリア王リオンディーズによる肖像画に関する次の台詞は、あたかも常識のように語られているが、それが純粋に戯曲のための存在であり、実際には描かれたはずがないことを示唆している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

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