ブリトン人の歴史
[Wikipedia|▼Menu]

『ブリトン人の歴史』(ブリトンじんのれきし、ラテン語: Historia Brittonum)は、イングランドアングロサクソン朝の七王国時代に編纂された、ケルト系ブリトン人が国を支配していた時代についての歴史書らしき本である。原書は828年頃に成立。伝ネンニウスの著。アーサー王伝説に関する最古級の資料として重視されている。

従来出版されてきた編書・訳書では伝ネンニウス作とされてきたが、これに関しては疑義があり[1]、近年では作者不明の著書として扱う傾向が顕著になっている[2]#著者と年代特定の節は後述する)。原作の写本は、11世紀以降、40点ほどが現存している。
概要

作中では、ブリテン島の開拓がトロイアからの渡来人によっておこなわれたとし、ブリテンの国名も、アイネイアースの子孫ブルートゥスにちなんで命名されたと説く。また、「ジェフリー・オブ・モンマスが、『ブリタニア列王史』を創作するときに使用した一大資料」[3]でもあり、こうしたトロイア起源説などブリテン先史の部分は、そのまま中世の英国の史書(例: Brut of England こと The Chronicles of England, 1400年頃)に引き継がれている。

この作品はまた、アーサー王に関する具体的な内容を確認できる最古の資料としても重要視され、アーサー王が戦ったという12の会戦を記録する(うち2つの会戦は『カンブリア年代記』で年代が特定できる)。『ブリトン人の歴史』の作中では、伝説のアーサーは一介の「軍の指揮官」(dux bellorum)または「戦士」(miles)にすぎず、「王」とされてはいないことも[4](その作成期の古さの傍証として)留意すべきである(#アーサー「王」伝説の節を参照)。

また、ある会戦ではアーサーが聖母マリアの像を「肩に」担いだという描写があるが、近代の解説者は、アーサーの「盾に」マリア像が掲げられていたという意味であるはずを、ウェールズ語では「肩」と「盾」の単語が近似するため取り違えたのだ、と考察している[5]
構成.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Giles 他英訳 History of the Britonsラテン語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Mommsen 編 Historia Brittonumウィキクォートにブリトン人の歴史に関する引用句集があります。

校訂版の編者であるラテン学者テオドール・モムゼンは、作品を次のように序・七部に分けた。

序文 Prefatio Nennii Britonum

I. 世界の6つの時代(英語版) de sex aetatibus mundi(§1-6章)

II. ブリトン人の歴史 historia Brittonum(§7-49章)

III. パトリキウスの生涯 vita Patricii(§50-55章)

IV. アーサー王関連(§56章)

V. 王の系譜 regum genealogiae cum computo (§57?66章)

VI. ブリタニアの都市 civitates Britanniae(§66a章)

VII. ブリタニアの奇蹟 de mirabilibus Britanniae(§67?76章)

アーサー「王」伝説

前述したように『ブリトン人の歴史』では、アーサーは王とされず、軍事指揮官であり、身分もそう高くはないと説明されている。編者モムゼンの分類では、アーサー本人に関する記述は、たった一章(§56章)のみである。だが広義にみれば、作中に登場する「マーリン・アンブロジウス」(§42章)(もっとも「マーリン」の名は使われないが)はもちろん、ヴォーティガン王(§31-49章)も、立派なアーサー王伝説の重要人物らである。
ヴォーティガン

ヴォーティガンがブリテンの国王に即位し、ウォーデンの血筋をひくホルサとヘンギストが率いるサクソン人を招きいれた。「キリスト受難より447年(+35=西暦482年)」のことである(31章)[6]
聖ゲルマヌス

ブリタンニアへ来たガリアの司教オセールの聖ゲルマヌス(英語版)の聖人伝。ヴォーティガン王は、自らの娘と通じて(婚姻して)子をなしたが、このことを僧侶のゲルマヌスになじられると、娘をそそのかし、僧侶こそがその父親だ、と偽証させた。しかしゲルマニウスは動じず、その子にたいし、「そなたの父となってしんぜようぞ、坊よ。そしてカミソリとハサミと櫛を(お前が)もってくるまで、お前を手放すまいぞ。お前にはおまえの実父にこれらのものを渡す権利があるのじゃ」と言った。すると坊は、ヴォーティガンのところにいき「お父様はあなたです。私の髪を切ってください」と言った。王は赤面し、怒りをあらわに立ち去った(つまり、ブリトンでは、上述のように、男の子が一人前になると、元服の儀式として、父親による髪切りの典礼がおこなわれていたことがわかる。ウェールズの物語『キルフッフとオルウェン』でも、主人公がアーサー王に髪切りの儀式を願い出る)。
マーリン

ヴォーティガンはスノードン山の近くにディナス・エミリュス(Dinas Emrys)という城砦を築こうとしたが、うまくいかなかった。これを解決するために彼はアウレリウス・アンブロシウスと戦ったという。モンマスのジェフリーはこの話を彼とマーリンの話に置き換えている。
アーサー王の戦い

56章にアーサー王が関わったとされる12の戦いを並び立てた詩の要約と思われるものがあるが、いくつかはアーサー王との関連性がはっきりとしない。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef