ブリティッシュ・ダーツ・オーガナイゼイション
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ブリティッシュ・ダーツ・オーガナイゼイション (British Darts Organisation (BDO)、イギリスダーツ組織)は、ダーツ団体の1つである。1973年1月7日に、オリー・クローフトによって、設立された。BDOは、1976年に組織されたワールド・ダーツ・フェデレイション (WDF) の設立メンバーでもある。しかし2020年清算。

BDOの手がける範囲は、アマチュア、スーパー・リーグ、ユース、カウンティ、プロフェッショナルにおけるそれぞれの男女部門と幅広い。現在、イギリスにおいて66会員のカウンティがあり、世界中の69の国々と協力関係にある[1]
設立から分裂までの歴史

1973年にBDOが設立されるまで、ナショナル・ダーツ・アソシエイション・オヴ・グレイト・ブリテン (NDAGB) が、イギリスのダーツを支配していた。NDAGBの時代は、The Peopleというチームが行っていた試合と、ニューズ・オヴ・ザ・ワールドというトーナメントを除き、あまりメディアに取り上げられる存在ではなかった[2]

このNDAGBに取って代わり、BDOは、スポンサーシップを募り、多くのテレビ放送を誘致し、ダーツを国際的なプロフェッショナル・スポートにした。1979年までには、イギリスにおけるダーツ人口の見積もりが、週に3、4回真剣にプレイする層が200万人、それとは別に、頻繁にプレイする層が300万人、さらにそれとは別に、少なくとも年1回はプレイする層が200万人となる[2]

1976年、ダーツにおける世界統治を目指すため、オリー・クローフトと14カ国の代表が、ワールド・ダーツ・フェデレイションを設立する。

1978年、ダーツにおけるワールド・チャンピオンシップのアイディアを思いつき、エンバシー・ブランドのスポンサーシップとBBCのテレビ放送を手配したマイク・ワタスンにより、Embassy ワールド・ダーツ・チャンピオンシップが、初開催される。1979年1月、BBCで放送された2度目のEmbassy ワールド・ダーツ・チャンピオンシップの決勝戦は、800万の視聴数があった。また、70年代から80年代には、エリック・ブリストウジョン・ロウアラン・エヴァンスジョッキー・ウィルソンレイトン・リース、クリフ・ラザレンコなどのスター・プレイヤーも、誕生した。このワールド・チャンピオンシップが始まってから、ダーツのテレビ放送は、ITVやBBCなどで、増えていった。また、テレビの放送時の、右にプレイヤー、左にボードというBDOの手法は、今や全世界に広がっている[3]
ダーツ界の分裂詳細は「ダーツ界の分裂」を参照

タバコの規制が高まってきた80年代後半になると、タバコを吸い、酒を飲みながらプレイしていたダーツは、与える印象が悪くなり、1988年までには、多くのスポンサーを失い、1989年には、ワールド・チャンピオンシップだけが、テレビ放送される唯一のトーナメントとなってしまう。

ダーツ用品製造業者、プレイヤー、マネージャーの中には、この状況を何とかしようとするものが現れた。1992年、現役で活躍しているその時点までの全ワールド・チャンピオン[注釈 1]を含む16人のプロフェッショナル・プレイヤーが、ワールド・ダーツ・カウンスル (WDC) を創設した[4]。彼らが独自に開催するテレビ放送されたイヴェントは、大当たりしたものもあり、彼らには事が前に進んでいるように思えた[2]

しかし、BDOは彼らの行動が気に入らなかったため、1つに集約された最後のワールド・チャンピオンシップである1993 Embassy ワールド・チャンピオンシップの後、BDOのトーナメントや国際試合への出場を禁止し、他のプレイヤーにも、彼らとダーツをしたら、たとえチャリティーであろうとも、彼らと同様の処置をとるとした[5]
分裂後

歴代の全ワールド・チャンピオンがBDOを去り、名実を兼ね備えたスター・プレイヤーがいなくなったものの、大量の賞金を提供することで新しいプレイヤーを補充し、わずか数年でBDOのダーツはレヴェルを取り戻した。それどころか、エリック・ブリストウジョン・ロウジョッキー・ウィルソンがBDOで繰り広げていたよりも、レヴェルの高いダーツが行われるようになる。一方、WDCは、ブリストウなどの不調から抜け出せないプレイヤーが増えた上に、新しいプレイヤーがなかなか集まらず、ワールド・チャンピオンシップ間における全体的なレヴェルの逆転が起きる。また、初回のWDC ワールド・チャンピオンシップの賞金総額は、BDOの半分以下であった。

1997年、トムリン・オーダーにより、WDCを、プロフェッショナル・ダーツ・コーポレイション (PDC) と名称変更させるが、PDCに所属するプレイヤーへの制裁を解き、全てのプレイヤーが、ワールド・チャンピオンシップ以外は、どのトーナメントでも、自由に参加できることを、BDOは受け入れる。2000年代の初頭は、オリー・クローフトは、BDOだけでなく、PDCのプレイヤーにも、十分な賞金額と莫大な数のトーナメントを提供していると述べ、BDOのPR担当であるロバート・ホウムズは、フィル・テイラーは驚異的なプレイヤーに疑いは無いが、統計値がはっきりと示すように、最高のダーツは、全てエンバシーにあると述べていた[6]

しかし、当時から両試合を観戦すると、エンバシーのチャンピオンがフィル・テイラーを打ち破れるとは到底思えず[7]、統計値で見ても、確かに全体的には、BDOの方が上だが、最上位層、少なくともチャンピオンは、PDCの方が上であった。そして、何度か行われたチャンピオンの直接対決では、常にPDCのチャンピオンであるフィル・テイラーの勝利で幕を閉じている。

また、PDCは、WDCの頃から、ダーツをより魅力的にするため、プレイヤー全員へのニックネイムの付与や、凝った入場演出などを取り入れてきた。それと同時に、試合中の飲み物をアルコールから冷水にするなど、悪い印象を改善し、ダーツをよりスポーツとして定着させる基本的なことも、行ってきた。これらは、後からBDOも模倣するが、プレイヤーやダーツそのものを魅力的にする努力を、BDOが主体となって行ってきたとは言い難い。2003年7月、イギリス政府が、スポーツ・イヴェントにおけるたばこ広告を禁止したため、1978年の初回から変わってなかったタバコ会社からの援助はなくなり、打撃を受けた。2004年からは、会場であるレイクサイド・カントゥリー・クラブから、スポンサーシップを受けるようになったが、この年、前年よりも若干賞金総額が、下がっている。

2001年、ロニー・バクスター、スティーブ・ビートン、クリス・メイソン、ピーター・マンリー、アンディ・ジェンキンスが、PDCに移籍する。このとき、クローフトは、エンバシーに与える影響はわずかで、彼らはエンバシーの第1ラウンドも通過できないだろうと答えている。そして、この移籍は、プレイヤーがBDOから大量に離れていく前兆ではないと付け加えた[8]

だが、クローフトの発言とは裏腹に、移籍はますます加速し、2006年には、BDOで最も輝かしい記録を持っていたレイモンド・ファン・バルネフェルトが移籍し、その後も、若きスター・プレイヤー達が、大きなタイトルすら防衛することも無く去っていくことも珍しくなくなった。BDOに所属経験のないPDCで育ったプレイヤーも増え始めたところにこれらのプレイヤーが加わり、両団体間におけるレヴェルの再逆転が起きる。BDO ワールド・ダーツ・チャンピオンシップを創設したマイク・ワタスンは、もはやBDO ワールド・チャンピオンシップのテレビ放送すら見ておらず、現在、最高のプレイヤーは、全員PDCにいると述べている[9]

現在、賞金額でも圧倒的な差をつけられ、移籍する大きな理由の1つとなっている。
PDCへの対抗策

分裂後、BDOは、PDC (WDC) に対して、様々な対抗策を取ってきた。

まず、1993年にBDOの全てのトーナメントにWDCに加入した全プレイヤーの参加を禁止した。この制裁は、BDOに忠誠を誓い、BDOに戻ることでしか解除しないとしていた。その上、BDOのプレイヤー達にも、WDCのプレイヤーとプレイしたものは、たとえエキシビションのチャリティーでさえも、同様にBDOのトーナメントの参加を禁ずるとした[10]。これに対しWDCは、法廷に持ち込んだが、双方時間もコストも掛かりすぎたため、1997年、トムリン・オーダーにより、この制裁を解き、その後、どのプレイヤーも開催団体に関わらず自由に参加できることを認める代わりに、WDCの名称から世界統治団体の意味を削らせ、BDOをイギリスの統治団体、WDFを世界の統治団体と認めさせる。このときより、WDCは、プロフェッショナル・ダーツ・コーポレイション (PDC) となる。


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