ブリジット・バルドー
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Brigitte Bardot
ブリジット・バルドー
1962年
本名Brigitte Anne-Marie Bardot
生年月日 (1934-09-28) 1934年9月28日(89歳)
出生地パリ
国籍 フランス
職業女優歌手
配偶者ロジェ・ヴァディム(1952年 - 1957年)
ジャック・シャリエ(1959年 - 1962年)
ギュンター・ザックス(1966年 - 1969年)
Bernard d'Ormale(1992年 - )
主な作品
素直な悪女』(1956年)
私生活』(1962年)
軽蔑』(1963年)
ビバ!マリア』(1965年)
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ブリジット・バルドー(Brigitte Bardot、1934年9月28日 - )は、フランスパリ15区[1]出身の女優ファッションモデル歌手、動物保護活動家である。頭文字が B.B.[注釈 1]であることから、同じ発音で「赤ん坊」を意味するフランス語 bebe[注釈 2]とかけて「BB(ベベ)」が愛称となる。猫のような目にぼてっとした唇が愛らしく「フランスのマリリン・モンロー」とも形容され、20世紀のヨーロッパを代表するセックス・シンボルであった。
来歴

ルイ・バルドー(ブリジットの父。1896年生まれ、1975年没。ピルーとあだ名が付けられていた)[2]と、アンヌ・マリー・ムセル(ブリジットの母。1912年生まれ、1978年没。トティとあだ名が付けられていた)の間に生まれる。

母は専業主婦。幼少期の多くをイタリアで過ごし、ファッションとダンスが好きな人物であった。

父のルイは、「バルドー」というガス会社を経営をしていた。詩人でもあり詩集を出版しアカデミー・フランセーズの賞を受賞している。映画、演劇、雑誌のディレクターと親しい付き合いがあった。映画が好きで自分でも8ミリカメラで撮影していた。ルイが37歳の時にアンヌ・マリー・ムセルと結婚する。

1938年5月5日にはブリジットの妹、マリー・ジャンヌが生まれた。マリー・ジャンヌは、のちにミジャヌー・バルドーという芸名で、1956年から女優の活動をしていた。1970年に女優業から退き、家具の制作をしている。1960年代俳優パトリック・ボーショーと結婚し娘が一人いる。

妹のマリー・ジャンヌはとても成績がよい一方、ブリジットは成績が悪くよく怒られ、両親は妹贔屓であると感じていた。どうして私は生まれてきたのだろうとよく悩んだようだ。ブリジットは右目が弱視であった[3]

7歳の時にリコと言う先生のもとでバレエを始め、初めて賞をもらう(のちにマルセル・ブルガという先生に変わる)。

1948年フランス国立高等音楽院に受かった。150人中10人の中に選ばれた。ブルターニュ地域圏レンヌでクリスチャン・ホワのエトワール・バレエの劇団に参加する。

1949年、雑誌のディレクターを務めるエレーヌ・ラザレフとブリジットの母が親友であったことから、女性向けファッション雑誌Elle』のフッションモデルを15歳で務める。皆に気に入れられ『Elle』の表紙を務め、雑誌のマスコットになった。

映画監督マルク・アレグレは、雑誌を見てブリジットと会うことを求めたが、ブリジットの両親は、彼女が女優になることに反対した。祖父が彼女を信じて遣らせる事を進め、マルク・アレグレのアシスタント監督(当時)を務めていたロジェ・ヴァディムが手掛けた映画『Les lauriers sont coupes』に出演した。結果的にその映画が上映されることはなかったが、この映画のために行われたオーディションがロジェ・ヴァディムとブリジットを結びつける恋のきっかけとなった。

ブリジットの両親はロジェ・ヴァディムとの交際に反対し、ブリジットはイギリスで勉強する事になる。成人を過ぎてから戻るように言われるがブリジットは拒否した。その夜、家族でショーを見に行く予定だったがブリジットだけは頭痛を理由に行かず、キッチンのガスを開いて自殺しようとした。ショーが中止になり早く戻ってきた家族は、ブリジットが意識不明になっているのを発見。意識が戻ったブリジットはイギリスに行く事を断念するよう父に懇願する。父親は18歳まで結婚しない事を条件にイギリス行きを撤回した。

1952年12月21日、ブリジットの父はロジェ・ヴァディムと18歳になったブリジットとの結婚を許し、二人は結婚する。

1956年、ヴァディムの監督作品『素直な悪女』で、男達を翻弄する小悪魔を演じ、セックス・シンボルとして有名になった。『素直な悪女』の撮影中、共演者のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ち、のち(1957年12月6日)にヴァディム監督と離婚。ジャン=ルイも女優で妻のステファーヌ・オードランと別れた。このジャン=ルイとのスキャンダルで「自堕落な女」「自由気まま」と形容されるようになった。

1959年、ジャック・シャリエと仕事し関係を持ち、子供ができる。1959年6月20日、ジャック・シャリエと再婚する(1962年11月20日離婚)。ブリジット・バルドー(1965年)

1966年7月14日、ギュンター・ザックスと結婚。

歌手としての活動もあり、1967年にはセルジュ・ゲンスブールの提供による「Harley Davidson(ハーレイ・ダビッドソン)」、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」、「Bonny and Clyde(ボニーとクライド)」などを歌った。

1968年初頭には、ゲンスブールとの連名のアルバム『ボニーとクライド』も発表している。当時ギュンター・ザックスと結婚していたバルドーは、ゲンスブールと不倫の関係にあったが、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」はそれを露骨に示す。

この歌はバルドーとゲンスブールのデュエットに加え、バルドーによるあえぎ声の演技を含んでいる。そのことからバルドーはこの歌のリリースを拒否、ほどなくゲンスブールとの関係も円滑でなくなり男女関係解消。ブリジット・バルドーとサミー・フレイ(右)、1963年

1969年10月1日、ギュンター・サックスと離婚する。ロンドンに行きビートルズのジョン・レノンと対面する。ジョンにギターを渡し「何か弾いてちょうだい」と発言し、大ファンだったジョンは応じたという。

1973年、「L'Histoire tres bonne et tres joyeuse de Colinot trousse-chemise(スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語)」(日本未公開)を最後に引退宣言して動物愛護活動に専念する。

1982年シングルレコード「Toutes les betes sont a aimer(全ての動物は愛す為にいる)」をリリースする。

1992年8月16日、ベルナー・ドルマルと結婚。

2009年動物の倫理的扱いを求める人々の会、通称PETAの会員で、同会の広告塔であるバルドーは、「カナダのアザラシ猟に対する抗議活動」として、カナダ産メイプルシロップのボイコット運動を行っている。

2011年日産MOCOCMソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「Ca Pourrait Changer」が使われた[4]

2018年1月17日、#MeTooについて「女優たちの売名行為。偽善的でばかげている」と批判した[5]
エピソード

姓も名も同じアルファベットイニシャルを持つ(Brigitte Bardot=BB、Marilyn Monroe=MM)という共通点を持ち、同時期に世界的なセックス・シンボルとして人気だったため、昔からマリリン・モンローと一緒に話題になるが、NHK-BS2で放映された番組[注釈 3]でのインタビューで、バルドーは『みんな、モンローかバルドーか?って、よってたかって勝手に並べるけど、私はマリリンのファンなの。


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