ブランドン・ティーナ
[Wikipedia|▼Menu]

ブランドン・ティーナ
生誕ティーナ・レニー・ブランドン
1972年12月12日
ネブラスカ州リンカーン
死没1993年12月31日(1993-12-31)(21歳)
ネブラスカ州フンボルト
死因による殺人ヘイトクライム
国籍アメリカ
別名ビリー・ブリンソン
ティーナ・レイ
テンプレートを表示

ブランドン・ティーナ(Brandon Teena 、生誕時はTeena Renae Brandon、1972年12月12日 - 1993年12月31日)は、アメリカトランスジェンダー男性(男性の性同一性を持つが、身体は女性)であり、ネブラスカ州フンボルトで起こった強姦殺害事件の被害者である[1][2][3]1999年アカデミー賞を受賞した映画『ボーイズ・ドント・クライ』と、その下敷きとなったドキュメンタリー映画ブランドン・ティーナ・ストーリー』(1998年)のモデルとなった。どちらの映画も法的・医療的差別がティーナの惨死を招いたとしている[4]

この事件は後年に起きたマシュー・シェパード殺害事件と共に、アメリカにおけるヘイトクライム禁止法制定推進の原動力となった[5][6]
プロフィール

ブランドンことティーナ・レニー・ブランドン[7] は、ネブラスカ州リンカーンにて父パトリック[8] と母ジョアンのもとに2人目の子として生まれた。父は彼が生まれる8カ月前に自動車事故で亡くなっている[9]。母によると名前の由来はティナ・マリーという名のジャーマンシェパードであったという[9]。姉タミーが6歳、ティーナが3歳になるまではリンカーンで母方の祖母に育てられ、それから母のもとへ引き取られた。リンカーン近郊のパイン・エーカーに住み、母は婦人用品店で働いて生計を支えた。ティーナも姉タミーも幼少時から何年にも渡って叔父に性的虐待を受けており[9][10]、この件についてティーナは長じてからカウンセリングを受けようとしたことがある[11]。母ジョアンは1975年に再婚したが、相手のアルコール依存症が原因で5年後に離婚した[9]。家族はティーナのことを幼少時よりお転婆と思っていたが、ティーナは青年期には自分は男性であると性自認するようになり、女子とデートすることもあったという。母ジョアンは彼の性自認を拒絶し、あなたは娘であると言い続けた。ティーナ(以後ブランドン)は自分がインターセクシャルだと考えたが、これはのちに誤りと分かった[12]

ブランドンは姉とともに小学校からハイスクールに進み、同級生たちには社交下手な子だと思われていた[9]。ハイスクール2年次のときに彼はキリスト教を捨てた。学校の神父にキリスト教理にある禁欲の教え・ホモセクシュアリティーを禁じる教えを説かれたためである[9]。同時に学則の服装規定に反して、より男性的な服装で通うようになった。最終学年次に学校をアメリカ軍採用官が訪れ、生徒たちに軍への登録を呼びかけた。ブランドンは18歳になって間もなくアメリカ陸軍に登録して湾岸戦争に従軍することを望んだが、男性として登録したペーパーテストで落とされた[9]

18歳になったブランドンは胸を布で巻いて少年に見えるよう工夫し、友人たちとスケート場へ遊びに行くようになった。13歳の少女や14歳の少女ヘザー[9] とデートを重ねるようになり、日常的に男性の服を着るようになった。卒業式も間近になるとクラスでも目立つ存在になっており、同級生は「ひょうきんもの」だったと記憶している[9]。学校をさぼるようにもなり、単位も落とし、卒業式の3日前に学校を放逐された[9]

その夏には初めて本格的にヘザーと付き合い始め、同棲するためのトレーラーハウスを買おうとガソリンスタンドの従業員になる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef