ブランドン・ウェブ
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ブランドン・ウェブ
Brandon Webb
アリゾナ・ダイヤモンドバックスでの現役時代
(2007年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ケンタッキー州アシュランド
生年月日 (1979-05-09) 1979年5月9日(45歳)
身長
体重6' 3" =約190.5 cm
230 lb =約104.3 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り2000年 MLBドラフト8巡目
初出場2003年4月22日
最終出場2009年4月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


アシュランド高等学校

ケンタッキー大学

アリゾナ・ダイヤモンドバックス (2003 - 2009)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ブランドン・タイラー・ウェブ(Brandon Tyler Webb, 1979年5月9日 - )は、アメリカ合衆国ケンタッキー州アシュランド出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

日本語メディアにおいてはブランドン・ウェッブと表記されることもある。

2006年にはナショナルリーグサイ・ヤング賞を受賞した。
経歴
アマチュア、マイナー時代

幼少期はアトランタ・ブレーブスのファン[1]リトルリーグでは三塁手をしていたが、高校の野球部では投手に転向する。高校卒業時にはMLB球団からのドラフト指名こそなかったものの、いくつかの大学から奨学生のオファーをもらい、その中からケンタッキー大学を選んで進学する[2]。大学時代のウェブは、90mph台前半(148.8km/h前後)の速球カーブを投げる速球派投手だった[3]。ある日の試合で上級生が学業成績悪化のためプレイできなくなり、ウェブが代わりに先発登板、そこで好投したためそのまま先発に定着した[4]2000年、ウェブは18試合112.0イニングで7勝3敗・防御率4.58・123奪三振という成績を残している。このときのチームメイトにはジョー・ブラントンがいる。

同年、MLBドラフト8巡目(全体249位)でアリゾナ・ダイヤモンドバックスから指名され入団。この年にマイナーのA級サウスベンド・シルバーホークス(英語版)で初めて投球練習した際に、投手コーチのロイヤル・クレイトンから「君の球には物凄く Movement があるんだから、もっとツーシームを投げてみないか?」と言われ、投げてみたところ「自分でもビックリするぐらい」大きく沈む変化を見せたという[5]。ウェブはこれを受けて「自分の投球スタイルを全面的に変えることにした。三振の代わりにゴロを打たせるようにした」と、シンカーボーラーへの変身を決めた[3]。この年は「あまり気乗りしなかった」というリリーフで12登板して終わったが[4]、翌2001年にAdv-A級ランカスターに昇格すると29登板中28試合で先発。しかし、投げる本人でさえどこに行くかわからないというツーシームの制球に苦しみ、この年は6勝10敗・防御率3.99・27与死球という成績で終えた。

2002年にAA級エルパソ・ディアブロスに昇格したウェブは、そこでクレイトンとマーク・デイビスの2コーチから指導を受け、ツーシームを会得する[4]。これまで速球はフォーシームとツーシームとを使い分けていたウェブだが、この年からフォーシームをやめてツーシームだけを投げるようにした[5]。エルパソでの26試合で10勝6敗・防御率3.14を挙げると、シーズン途中にAAA級ツーソンへ昇格。翌2003年にツーソンで3試合に登板後、4月にメジャー昇格を果たす。
先発ローテーション定着

2003年4月22日、ウェブは敵地でのエクスポズ戦にリリーフ登板し、メジャーデビューを果たす。そして5日後のメッツ戦(ダブルヘッダー第1試合)ではメジャー初先発し、7回無失点でメジャー初勝利を挙げた。試合終了直後にロースター枠の関係でAAA級に戻されたものの、すぐにランディ・ジョンソンが故障して枠に空きができたためメジャーに再昇格し、そのまま定着。この試合以降7月8日のロッキーズ戦まで13試合連続でクオリティ・スタート(QS)を記録する安定感を見せた。これは1973年スティーブ・ロジャースがメジャー初先発から16試合連続で記録して以来のMLB最長である[6]。シーズン通算では10勝9敗・防御率2.84(リーグ4位)・172奪三振(同10位)を記録。21QSは新人投手ではMLB最多だった[6]。この活躍が評価され、シーズン終了後の新人王投票では3位に入り、『ベースボール・アメリカ』選出の最優秀新人に選ばれた[7]

2004年先発ローテーションに定着し35試合に先発したが、チームは51勝111敗で地区最下位に低迷し、ウェブも与四球暴投の2部門でリーグワースト、また与死球もリーグ6位と制球難に苦しんだ。ウェブによれば、失策を頻発させる野手陣を信頼することができなかったために無理に三振を取りにいき、これが逆に制球を乱すことにつながったという[3]。得点圏被打率.195と肝心なところで踏ん張って失点を防ぎ、QSも20を数えるなど良い部分もあったが[8]、あまり納得がいかないシーズンを送ることになった。それまでほとんどツーシームしか投げていなかったウェブは、2005年にカーブを、2006年チェンジアップを上達させ、投球フォームも修正する[4]。これにより安定感が増したウェブは、2年間で与四死球・暴投を大きく減らし、成績を向上させる。
ダイヤモンドバックスのエースへ

ダイヤモンドバックスとウェブは、シーズン開幕前の2006年1月に4年1950万ドル(5年目は球団オプション)で契約を延長する[9]。こうして迎えた2006年、ウェブは開幕から8連勝を記録するなど勝ち星を重ねていき、最終的には16勝で最多勝利のタイトルを獲得(他5人とタイ)。ほかにも防御率3.10(リーグ3位)・178奪三振(同10位)・WHIP1.13(同2位)・235.0イニング(同2位)と好成績を残し、シーズン終了後にはサイ・ヤング賞を受賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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