ブランデンブルク_(特殊部隊)
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ブランデンブルク師団袖章

ブランデンブルク(: Brandenburg)は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツにおける特殊部隊の呼称である。

ブランデンブルクの部隊はほとんどすべての前線(ポーランド侵攻デンマークおよびノルウェー侵攻フランス侵攻バルバロッサ作戦フィンランドギリシャクレタ島の戦いルーマニアブルガリアおよびユーゴスラビア)で作戦行動を行っており、いくつかの部隊はインドアフガニスタン中東諸国および南アフリカに潜入した。彼らはまたフェリックス作戦ジブラルタル占領計画)およびアシカ作戦のための訓練も行っている。部隊は戦争初期、ポーランドおよびオランダにおいて先遣部隊として活動し、戦略目標であるトンネル鉄道車両基地を占領するといった驚くべき成功を収めた。

ブランデンブルク隊(モットー: Hie Gut Brandenburg Alle Wege)は国防軍情報部第2課から発展し、開戦初年中はコマンド部隊として使用された。当初、部隊は他国語を話せる元国外居住者を主として構成されていた。1944年まで部隊は陸軍の一部隊と言うよりむしろ陸軍総司令部(OKH)の部隊として活動した。部隊は前線の戦闘部隊としてグロースドイッチュラント装甲軍団に編入されるまで次第に拡大された。

部隊の変遷
1939年 エビングハウス大隊
1939年 第800 特殊任務 建設・教導中隊
1939年 第800 特殊任務 建設・教導大隊
1940年 第800 特殊任務 教導連隊ブランデンブルク
1943年 ブランデンブルク師団
1944年 ブランデンブルク装甲擲弾兵師団

発足 ? 国防軍情報部

第一次世界大戦中、ドイツ領東アフリカの指揮官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍はたくみにゲリラ戦を指揮し連合国植民地軍と戦った。同時期中東では、T.E.ロレンスオスマン帝国に対するアラブ反乱で、アラブ人のヒット・アンド・ラン戦法を駆使して大きな成功を収めていた。テオドル・フォン・ヒッペル(英語版)大尉はアフリカにおいてレットウ=フォルベックの下で従軍し、戦後、レットウ=フォルベックおよびロレンスによって考案されたゲリラ戦術の熱烈な支持者となった。

ヒッペルのビジョンはSASを創設したデイヴィッド・スターリングを連想させる。ヒッペルは、高度なサボタージュおよび外国語会話の訓練を施し、敵後方の指揮・通信・兵站を混乱に陥れる作戦を行う小規模のエリート部隊の創設を考案した。ヒッペルが国防軍に提案したとき、彼のアイデアは却下された。プロシアの保守的な将校達はこの隠密型の戦闘行為は戦争のルールを侮辱し、このような戦闘に従事するものは兵士と呼ぶにふさわしくないとみなした。ヒッペルはくじけず、彼のアイデアを国防軍情報部の指揮官ヴィルヘルム・カナリスに直接具申した。ヒッペルは国防軍情報部第2課に配属され、彼のビジョンを実現する任務を与えられた。
エビングハウス大隊 ? ポーランド

最初に編成されたエビングハウス(Ebbinghaus)大隊はそのほとんどがポーランド語が流暢な元国外居住ドイツ人(Volksdeutsche)で構成された。大隊はカナリスの手配により国防軍最高司令部(OKW)の支援を受け編成されたが、国防軍の管轄下に置かれた。

「白の場合(Fall Weis、ポーランド侵攻)」作戦において、大隊は鮮烈なデビューを飾った。エビングハウス隊は重要な橋や戦略目標を確保して破壊を防ぎ先鋒部隊の進軍を支援したのみならず、幹線道路や鉄道のジャンクションを破壊することによってポーランド軍後方部隊を混乱に陥れた。エビングハウス大隊はその成功にもかかわらず、作戦後直ちに解散させられた。
国防軍情報部の管轄下へ ? ブランデンブルク隊

カナリスはヒッペルに対し、国防軍情報部管轄下にエビングハウス大隊のような部隊を創設するよう指示した。1939年10月25日、ヒッペルは元エビングハウス大隊のメンバーを中心とした最初の部隊第800 特殊任務 建設・教導中隊(Baulehrkompanie z. b. V.[1] 800 または Lehr und Bau Kompanie z.b.V. 800)をつくった。

中隊員の募集はヒムラー親衛隊とはまったく別のやり方で行われた。ヒッペルは、金髪碧眼といったアーリア人の理想を具現化した典型(Ubermensch)のような者のみを採用するよりはむしろ、国内のスラヴ人ポーランド人およびその他民族でドイツのために戦える人材を探した。何人かの志願者はイギリスの封鎖線を越えてきて入隊した。採用に関して、少なくとも一ヶ国の外国語に堪能であることが必須条件とされたが、多くの採用者は複数の言語を流暢に話せた。採用された隊員は、特定の地域の慣習や伝統を教え込まれた。作戦を行う地域の人々の習性や癖を知ることはその地域に溶け込むことや効果的なサボタージュ作戦を遂行するために必要とされた。

部隊の兵舎はベルリンの旧ブランデンブルク辺境伯領シュテンダール(Stendal)に置かれ、訓練場はオラニエンブルク(Oranienburg)のフリーデンタール(Friedenthal)付近に用意された。1939年12月15日の新隊員の入隊により、創設されて3ヶ月に満たずして中隊から大隊に拡大され、第800 特殊任務 建設・教導大隊(Baulehrbataillons z.b.V. 800)となった。

最初の大隊は前線の敵民族にあわせた4個中隊で構成された。大隊にはまたオートバイ小隊と落下傘小隊も含まれた。

第1中隊 ? バルト三国/ロシア地域からの人員

第2中隊 ? 英語圏地域および北アフリカ居住経験のある者

第3中隊 ? ズデーテン・ドイツ人 / ユーゴスラビア人

第4中隊 ? ポーランドなどの元国外居住ドイツ人(Volksdeutsche)

大隊は更に追加の混成部隊を創設して拡大した。カフカースからの人員で構成された、いわゆるアラブ旅団はブランデンブルクと連係をとり、中東方面の作戦に従事した。
フランス、低地諸国およびユーゴスラビア

ブランデンブルクは「黄の場合(Fall Gelb; 低地諸国および北部フランス侵攻)」作戦において、広範囲に及ぶ活動を行った。攻撃開始二夜前の1940年5月8日、ブランデンブルクは行動を開始した。敵の軍服を自軍のそれの上から着用し(占領後速やかに着替えられるようにするため、および敵の軍服を着ていて敵の捕虜になった場合のスパイとして処刑される危険を回避するため)、小部隊が国境を越えオランダ、ベルギーおよびルクセンブルクへ潜入した。

作戦初日に行った多くの活動の中の一つにオランダのヘネプにあるマース橋の占拠がある。ヴィルヘルム・ヴァルター中尉率いる8名のチームは橋を無傷で手に入れるという任務を与えられた。5月10日午前2時、ヴァルターのチームはオランダ軍警察に変装しドイツ軍捕虜を連行する体を装い襲撃した。2つの監視所を破壊したが、3名が負傷し、チームは身動きがとれなくなった。オランダの制服を着たヴァルターが橋を越え前に進み出たため守備兵は混乱し、チームの残りが負傷者を運び出すのを許してしまい、橋は占拠され、爆破装置も解除された。本作戦の過程で、この様なかたちでさらに多くの場所を占領したが、他の橋に関しては確保に失敗し、ブランデンブルク隊はオランダ軍に捕えられ、スパイとして射殺された。

フランス占領後、ブランデンブルクは(グロースドイッチュラント歩兵連隊(当時)とともに)アシカ作戦の準備のために北フランスに移動した。作戦が中止となった後、大隊は南フランスへ移り、ジブラルタル侵攻計画「フェリックス作戦」のための訓練に入った。

この時、大隊は再び拡大され、第800 特殊任務 教導連隊ブランデンブルク(Lehrregiment Brandenburg z. b. V. 800)となった。規模の増大とともに連隊には沿岸襲撃部隊および熱帯用装備の専門部隊が加わった。

ベニート・ムッソリーニがギリシャ侵攻にしくじると、ヒトラーソビエト侵攻を後回しにし、ユーゴスラビアおよびギリシャ侵攻作戦(コードネーム「マリタ作戦」)を1941年4月6日に発動した。


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