ブランズウィック_(企業)
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Brunswick Corporation
ブランズウィック コーポレーション

種類公開会社
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NYSE: BC

S&P 400(英語版)

業種金融業
保険業
造船業
輸送用機械
マリンエレクトロニクス
設立1845年9月15日 (178年前) (1845-09-15)
創業者ジョン・モーゼス・ブランズウィック(英語版)
本社 アメリカ合衆国 イリノイ州 メッタワ[1]
事業地域世界
主要人物CEO:デビッド・フォールクス(David Foulkes)
製品プレジャーボート船外機船舶用電子機器
サービス融資保険マリーナ
売上高 58億USドル2021年[2]
従業員数18,500名 (2022年[3])
子会社ナビコ
ウェブサイトbrunswick.com

ブランズウィック コーポレーション(英語:Brunswick Corporation 旧称:Brunswick-Balke-Collender Company)は、イリノイ州メッタワにグローバル本社を置くアメリカ合衆国コングロマリット1845年の創業以来、様々な製品の開発製造、マーケティングを行っており、世界24カ国で18,500名以上の従業員が就業する。

1845年にビリヤード台製造業として創業しており、1890年に開始したボウリング事業で業績を伸ばし多角化した。今日におけるプレジャーボート部門では世界有数のメーカーとなり、これに付随した船外機船舶用電子機器部門でも大手企業となる。また、技術部門ではアメリカ政府と取引を行う防衛部門を有している。
歴史
黎明期創業者であるジョン・モーゼス・ブランズウィック(英語版)

15歳でスイスから渡米したジョン・モーゼス・ブランズウィック(英語版)により、シンシナティ・キャリッジ・メイキング カンパニーとして、オハイオ州シンシナティ1845年9月15日に創業[4]。創業当初は馬車の製造を主な事業としていたが、機械工場を開設して間もなくブランズウィックはビリヤードに魅せられており、当時アメリカ国内で使われていたビリヤードテーブルはイギリスから輸入された物であったため、ビリヤードテーブルの製造に勝機を見出しておりテーブルの製造を開始する。結果、ブランズウィックのビリヤード台は商業的に成功を収めたことで事業を拡大、1848年には、イリノイ州シカゴに最初の支店を開設している。

2人の兄弟が入社した1855年にはJ.M ブランズウィック・アンド・ブラザース・ビリヤードテーブル・マニュファクチャリングに改名しており[4]、この時のスローガンは、The oldest and most extensive billiard tables(最も古く最も優れたビリヤードテーブル)、The oldest and most extensive billiard table manufacturers in the United States(米国で最も歴史があり、最も豊富な実績を持つビリヤード台メーカー)であった[5]

1872年、2人の兄弟はシカゴとサンフランシスコとで競合とビリヤードパーラーを始めるため会社を去っている[4]

1874年、ブランズウィック社はジュリアス・バルケが所有していた競合メーカー、グレート・ウェスタン・ビリヤード・マニュファクトリーと合併し、グレート・ウエスタン・ビリヤーズ・テーブル・マニュファクトリーとなった[4]1878年には業界最大手企業となっており、1879年には資本金275,000ドル(約3,700万円)で法人化され、同年、もう1つの競合会社であったニューヨークのH.W.コレンダー社と合併し、コレンダーが特許を持つビリヤードクッションの権利を得ている。1884年にブランズウィック・バルク・コレンダー・カンパニー(略称:B.B.C.カンパニー)を設立した[6]

1886年、ブランズウィック逝去。享年67歳。これに伴いヒュー・コレンダーが新社長として就任[4]

1890年、ブランズウィックの義理の息子であるモーゼス・ベンシンガーが社長に就任し、ボウリング事業を開始する[4]。20世紀初頭、ブランズウィックは取り扱い商品を拡大し、便座、自動車用タイヤ蓄音機など様々な製品の製造を行っている[4][7]
1900年代ボウリングの自動ピンセッターに関する特許出願図 US patent 2973204

1916年には、ブランズウィックレコード(英語版)(下欄を参照)という名称で蓄音機とレコードの販売を開始し、急速に普及した。1930年、ブランズウィックはレコード会社の経営権をワーナーブラザーズに売却し、冷蔵庫のラインナップを発表する。

第二次世界大戦中、ブランズウィック・バルク・コレンダー社は、アメリカ軍向けの小型標的型無人航空機を製造している。戦後は学校向けの家具を発売。1949年、ボウリング場を運営する大手企業アメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー(AMF)社と協力し、ボウリングピンを自動で処理するための全自動ユニット「モデルA」メカニカル・ピンセッターを発表。なお、それ以前にもブランズウィックは、半自動や手動式の「スポッティングテーブル」と呼ばれるユニット2機種を製造しており、モデルAはその後継機となる。1950年代には、レジャー用品やスポーツ用品市場でAMFに対抗するため、ゴルフ用品の製造も開始している。

1960年4月10日、ブランズウィック・バルク・コレンダー社は、正式にブランズウィックに社名を変更。翌年には4億2,200万ドル(約573億5千万円)の売上を計上した。1961年には、船外機大手であったマーキュリー・マリーンを買収。1970年代、ブランズウィックは、ボウラーが手で行う代わりに電子的にスコアを集計する、自動スコアラーを発表した。

ブランズウィックはブローバック機構を用いた機関銃特許を取得する。 この他、ロケット推進式手りゅう弾となる珍しいグレネードランチャーなど、武器の開発も行っている[8][9][10][11][12]

1971年には、日本のヤマハ発動機に対し合弁事業の打診を行っている。ヤマハはアメリカに視察を行い、社長である川上源一に対し、劣っていた船外機の技術を吸収するため必要であると上申する。しかし、川上は技術提携ならば認めるが、合弁事業には明確に反対を示したことで計画は一時凍結された。その後、ヤマハが断ればスズキトーハツに対し打診が行くだけであって得策では無いとして、最終的に合弁事業は認められ、折半出資による「三信工業」が設立された[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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