ブラム・ストーカー
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ブラム・ストーカー
Bram Stoker
Stoker c. 1906
誕生 (1847-11-08) 1847年11月8日
アイルランドダブリンClontarf, Dublin
死没1912年4月20日(1912-04-20)(64歳)
イングランド・ロンドンピムリコ
職業小説家
最終学歴トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)
活動期間ヴィクトリア朝エドワード朝
ジャンルゴシック小説恋愛小説
文学活動ダークロマン主義(英語版)
代表作『吸血鬼ドラキュラ
配偶者フローレンス・バルコム(英語版) (m. 1878)
子供1
署名
ウィキポータル 文学
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ブラム・ストーカー(Abraham "Bram" Stoker、本名:エイブラハム・ストーカー、1847年11月8日 - 1912年4月20日)は、アイルランドの作家。特に怪奇小説の古典『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)で知られる。生前は俳優ヘンリー・アーヴィングの個人秘書及び、彼が所有していたウエスト・エンドのライシアム劇場(英語版)のマネージャーとしても知られていた。

ストーカーはアイルランドの首都ダブリンの生まれであり、家族はアイルランド聖公会の信徒であった。幼少時は原因不明の病で寝たきりであったが、後に快復すると大学時代はスポーツ選手として活躍した。卒業後は父と同じくアイルランド行政の公務員になったが、副業として小説執筆や大学時代に興味を持った演劇の評論執筆を地元紙で行うなど、早くから文芸活動も行っていた。転機となったのは1876年、当代の名優ヘンリー・アーヴィングとの出会いであり、ロンドンに家族で転居し、彼が所有するライシアム劇場で働き始めた。アーヴィングの公演の随伴者としてアメリカやヨーロッパなど世界各地を訪れ、また彼を通してロンドンの上流階級とも交友を持ったことは小説の内容に影響を与えた。今日には『吸血鬼ドラキュラ』で知られているが、主としてはロマンス小説を数多く発表した。1912年4月20日に運動失調症で亡くなり、遺体は北ロンドンで火葬された。死後、妻フローレンス(英語版)によって未発表作が出版されている。
生涯
前半生

1847年11月8日、アイルランドの首都ダブリンのクロンターフ区マリノ・クレセント15番地にあるストーカー家の3人目として生まれる(現在この生家に隣接する公園はブラム・ストーカー公園と名付けられている[1][2]。父はダブリン出身で上級公務員のエイブラハム・ストーカー(1799年-1876年)、母はスライゴ県出身のシャーロット・マチルダ・ブレイク・ソーンリー(1818年-1901年)だった[3]。また、ストーカーは7人兄弟であり、長兄は準男爵に叙されたソーンリー・ストーカー(英語版)である[4]。両親はアイルランド聖公会クロンターフ教区の会員で、教区教会で洗礼を受けた[5]

幼少時のストーカーは原因不明の病で寝たきりであったが、後に完治し、7歳で学校に通い始めた。この頃についてストーカーは「私は生まれつき思慮深く、長い闘病生活で生じた余暇は思考する時間を与えてくれた。これが後に種類に応じて実りあるものになった」と回顧している。彼が通った学校は牧師が経営する私立学校であった[6][7]

完治後はそれ以上の大病を患うこともなく、ダブリン大学トリニティ・カレッジに入学する。同大学には1864年から1870年まで在籍し、アスリートとしても優秀な成績を修めた。1870年の卒業時に学士号(BA)を取得し、学費を払って1875年には修士号も取得した。後年、数学で優秀な成績を修めて卒業したと回顧しているが、これは誤りであったようである[8]
初期キャリアダブリンにあるストーカーの旧邸宅。

ストーカーは学生時代に、友人のマウンセル博士を通じて演劇に興味を持った。アイルランドの公務員として働く傍らで作家シェリダン・レ・ファニュが共同経営者でもあったダブリン・イブニング・メール紙の演劇批評も受け持った[9]。当時、演劇批評家の社会的地位は低いものであったが、ストーカーの批評は、その質の高さで評判となり、注目を集めた。生涯の友人となる舞台俳優ヘンリー・アーヴィングとの出会いは、1876年12月に彼がダブリンのシアター・ロイヤルで主演を務めた『ハムレット』を好意的に評価したからであった。アーヴィングは滞在していたシェルボーン・ホテルでの夕食にストーカーを招き、以降、友誼を結んだ。一方、この頃から既に小説の執筆も始めており、1872年に『Crystal Cup』がロンドン・ソサエティから出版され、続いて4部構成の『The Chain of Destiny』がシャムロック誌に連載された[6]
結婚とライシアム劇場への転職.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ロンドンのチェルシー、セント・レナード・テラス18番地にあるストーカーが暮らしていた邸宅。同住所でストーカーと所縁がある地番を示す銘板

1878年にストーカーはマリノ・クレセント1番地に住むジェームズ・バルコム中佐の娘フローレンス・バルコム(英語版)と結婚した。彼女は美人として有名で、オスカー・ワイルドも求婚者の一人であった[10]。ストーカーとワイルドは、ストーカーの学生時代から面識があり、時にワイルドを大学の哲学協会の会員に推薦したこともあった。ストーカーのフローレンスとの結婚はワイルドを激怒させ、2人は絶交したが、後には関係を修復し、ワイルドの没落後には、彼と会うためストーカーが大陸に旅行したこともあった[11]

ストーカーは家族と共にロンドンに移住し、アーヴィングが所有する、ウエスト・エンドにあったライシアム劇場(英語版)の支配人代理の職に就いた。後には同劇場の営業部長になり、27年間在職した[12]。1879年12月31日に誕生した息子にはアーヴィング・ノエル・ソーンリー・ストーカーと名付けるなど、アーヴィングとの交友関係はストーカーにとって重要であった。彼を通してストーカーはロンドンの上流階級と交流を持ち、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやサー・アーサー・コナン・ドイルと知り合った(ドイルとは遠縁でもあった)。当代きっての名優と謳われたアーヴィングの下で働き、ロンドンで最も成功したと評される劇場の経営に参画したことは、多忙ながらもストーカー個人が注目を浴びることにも繋がった。彼はアーヴィングに献身的に尽くし、アーヴィングの死後に書いた回顧録では崇拝していたとも語っている。また、この頃、親友となるホール・ケイン(英語版)とも出会い、後の代表作『吸血鬼ドラキュラ』では彼へ献辞している。

アーヴィングのツアーに従いストーカーは世界中を旅した。ただ、代表作『吸血鬼ドラキュラ』の舞台となった東欧は訪れていない。アーヴィングの人気が高かったアメリカはストーカーが満喫した国であり、ホワイトハウスにも2度招かれ、ウィリアム・マッキンリーやセオドア・ルーズベルトと出会っている。ストーカーの作品のうち2作はアメリカを舞台とし、またそれ以外の作品でもアメリカ人が登場することがあった(『吸血鬼ドラキュラ』のクインシー・モリスなど)。当時の文壇で信奉されていたウォルト・ホイットマンとも交友を持ち、1872年に彼に宛てた手紙は深く抑圧された同性愛の表現と解釈する者もいる[13][14][15]


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