ブラバム
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ブラバム」のその他の用法については「ブラバム (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ブラバム
創設者ジャック・ブラバム
ロン・トーラナック
参戦年度1962 - 1987
1989 - 1992
出走回数394
コンストラクターズ
タイトル
2 (1966, 1967)
ドライバーズタイトル4 (1966, 1967, 1981, 1983)
優勝回数35
通算獲得ポイント864
表彰台(3位以内)回数124
ポールポジション39
ファステストラップ40
F1デビュー戦1962年ドイツGP
初勝利1964年フランスGP
最終勝利1985年フランスGP
最終戦1992年ハンガリーGP
テンプレートを表示

ブラバム・モーターレーシング(: Brabham Motor Racing Developments Ltd.、別名: Brabham Racing Organisation)は、1962年から1992年まで存在したレーシングチーム・コンストラクターである。F1を中心に活動し、フェラーリロータス同様に名門チームのひとつに数えられていた。

マシンのシャーシ名に付けられていたBTは、ジャック・ブラバムと共同創設者ロン・トーラナック (en: Ron Tauranac)の頭文字から取られたものである。
概要
設立・第1次黄金期創設者ジャック・ブラバム共同創設者ロン・トーラナック

1959年1960年のF1チャンピオンに輝いたジャック・ブラバムクーパーから独立。同郷のマネージャー兼マシンデザイナー、ロン・トーラナックとともに、1962年にモーターレーシング・ディベロップメント(Motor Racing Development Ltd.)を設立し、競技用スポーツカーフォーミュラカーの製造・販売を始めた。当初はマシンに社名を略した"MRD"と付けたが、すぐに"ブラバム"を用いるようになった。

F1には1962年開幕戦オランダGPよりブラバム・レーシング・オーガニゼーション(Brabham Racing Organization)として参戦。当初はロータスの量販マシンで出走し、ドイツGPから自製のBT3を投入した[※ 1]。参戦3年目の1964年フランスGPにおいて、ダン・ガーニーがチームに初優勝をもたらした。1966年シーズンの王者ジャック・ブラバムと4連勝したF1マシン BT191967年シーズン連覇したF1マシン BT24

1966年はレギュレーションの変更により、エンジン排気量の制限が1.5リッターから3リッターになる。多くのチームが苦戦する中、ブラバムは信頼性の高いレプコエンジンを選択したことが的中。ジャック・ブラバムが4勝を挙げ、自身3度目のチャンピオンに輝く。これはF1史上、自身の設立したチームでドライバーズチャンピオンを獲得した唯一の例である。翌1967年、今度はチームメイトのデニス・ハルムがチャンピオンに輝く。どちらの年もコンストラクターズタイトルを獲得しており、2年連続の2冠を達成することとなった。1969年には市販化されたフォード・コスワース・DFVエンジンにスイッチし、ジャッキー・イクスの活躍でコンストラクターズ2位となった。

また、この時期ブラバムはF1以外のカテゴリーでも活躍していた。当時F1と掛け持ちで参戦するドライバーが多数を占めたF2においても、1966年ホンダエンジンを搭載したマシンで、ジャック・ブラバム、デニス・ハルムの2人の手により開幕11連勝を達成。最終戦ではジャック・ブラバムが2位となり惜しくもシーズン全勝は逃すものの、圧倒的な強さを見せた。ただし最終戦では、ジャック・ブラバムは理由も示さずに予選を欠場したため規定により最後尾スタートとなっており、このため「業界内での余計な軋轢を避けるためにわざと勝たなかった」と語られることがある。

ブラバムのシャーシは日本にも輸出され、創成期の国内4輪レース界に影響を与えた。国産初のプロトタイプレーシングカーである日産・R380はBT8Aを参考に開発された。また、鈴鹿サーキットが大量購入したブラバム製フォーミュラマシンがプライベーターに放出され、日本のフォーミュラレース振興に貢献している。
新体制ドライバー カルロス・ロイテマン(左)と会話中の、二代目オーナー バーニー・エクレストン(右)(1975年)

ジャック・ブラバムは1970年に引退し、トーラナックにチームを任せ帰国するが、ヨッヘン・リントのマネージャーだった実業家バーニー・エクレストンがチームを買収し、1972年より新オーナーとなる(トーラナックはその後ラルトを設立する)。チーフデザイナー、ゴードン・マレーの個性的なマシンが徐々に戦闘力を発揮し、1975年にはカルロス・ロイテマンカルロス・パーチェの南米コンビで、フェラーリに次ぐコンストラクターズ2位に浮上した(ロイテマンは1972年にデビュー戦でポールポジションを獲得している)。異色のファン・カー BT46B(1978年)

エクレストン体制では量販モデルの製造を止め、F1のみに活動を絞った。また、マルティニパルマラットの支援、アルファロメオエンジンの獲得など、イタリアカラーが混じるようになった。しかし、1976年からスイッチしたアルファ・ロメオエンジンの過大な燃料消費等に悩まされ、成績はしばし低迷する。1978年には表面冷却構造(レーサー的な航空機において既存のシステム)のマシンに興味を示した前年度のチャンピオンニキ・ラウダを迎え、ファン・カーとして知られるBT46Bで勝利を挙げたものの、1戦のみで使用禁止となった。
第2次黄金期14年ぶりにドライバーズタイトルを獲得したネルソン・ピケが乗るBT49C(1981年)

1979年、シーズン終盤にラウダが引退したことを受け、新加入のネルソン・ピケがエースに昇格する。またエンジンもアルファ・ロメオを諦め、フォード・コスワース・DFVエンジンに戻った。ピケは翌1980年のアメリカ西GPで初優勝を挙げると一気に才能を開花させ、ウィリアムズF1チームとチャンピオン争いを繰り広げた。この年はランキング2位に終わったが、翌1981年は新技術ハイドロニューマチック・サスペンションを搭載したグラウンド・エフェクト・カー BT49Cを駆り、ウィリアムズのカルロス・ロイテマンを破って初のドライバーズチャンピオンに輝いた。2度目のドライバーズタイトルを獲得したネルソン・ピケが乗るBT52B(1983年)

1982年からは、BMWターボエンジンの供給を受ける。この年は初期不良に苦しんだが、レース中に燃料給油・タイヤ交換を行うピット作戦をF1に持ち込んだ。1983年にはアロウシェイプを纏ったBT52をドライブしたピケがアラン・プロストを下して再びチャンピオンとなり、ブラバムで2度王座に着いた唯一のドライバーとなった。
再び低迷1985年フランスGPが最後のチーム優勝となったBT54

その後は熾烈なターボ開発競争の中、予選こそ好走するものの、レースでは勝利に届かない状況となる。1986年には挽回を期し、BMWエンジンを傾けて搭載することで空力の向上を狙ったBT55を投入したが、当時としては革新的過ぎるコンセプトゆえにマシンの熟成に苦しみ、最高位6位2回に終わった[※ 2]。シーズン中盤にはピケの後任でもあるエリオ・デ・アンジェリスポール・リカールでのテスト中に事故死し、悲劇のマシンになってしまった。

その後、エクレストンはF1製造者協会(FOCA)会長職に専念し、マレーの離脱でチームは弱体化する。1987年リカルド・パトレーゼアンドレア・デ・チェザリスの活躍もあり数回入賞するなどまずまずの成績を収めたものの、1988年は資金難で1年間活動を休止。エクレストンは新しいプロカー選手権[※ 3]を立ち上げるためチームをアルファロメオに売却した[1]。しかし、プロカー・シリーズの立ち上げは頓挫し、チームは新オーナーに名乗り出たスイス人投資家ヨアヒム・ルーティの手に渡った。

1989年はメインスポンサーが付かないままF1に復帰。セルジオ・リンランドの手によるニューカーBT58は、前年度にリジェが使用した中古のジャッドV8エンジンを搭載するものの、堅実なシャシー設計によって予備予選組ながらモナコGPステファノ・モデナが3位表彰台を獲得し、シーズン後半からは予備予選組から脱出。マーティン・ブランドルモナコGPイタリアGP日本GPでそれぞれ5位に1回、6位に2回入賞した。しかし、ルーティーが120億円を横領した容疑で逮捕され、資金を失ったチームは存続の危機に陥る。

1990年3月5日、リライアント・シミターGTの生産やクラシックカー収集などで知られていた日本人実業家の中内康児が率い、国際F3000に参戦していたミドルブリッジ・グループがルーティから全株式を買収してチーム運営(株式会社ジェイクラフトとの提携運営)にあたった。レイトンハウスフットワークラルースに続く日本人オーナーチームとなったが、中内は「我々は3年前からイギリスに現地法人を作ってレースに参戦し、現地の銀行から融資を受けてF1チームを買収したという事で、ジャパン・マネーの進出ではありません」と述べた[2]

中内オーナーになって以後は伊太利屋カルビーオートバックス住友海上火災三越マドラス山善など日本企業のスポンサーを獲得。ドライバーとして創始者の三男デビッド・ブラバムがF1デビューしたが成績は振るわず、モデナが開幕戦アメリカGPで獲得した5位入賞・2ポイント獲得にとどまった。

1991年にはヤマハV12エンジンを獲得したが、前半は予選落ちを喫した。しかし第3戦からニューマシンBT60が投入され、後半になるにつれ性能が上がり、最終的には新人マーク・ブランデルがベルギーGPで6位1ポイント、2年ぶり復帰のブランドルが日本GPで5位2ポイントと計3ポイント獲得。ヤマハとブラバムは良好な関係を築いていたため、一時はヤマハがブラバムをチームごと買い取る話も浮上するが、オーナーの中内が難色を示し、ブラバムとヤマハの関係は1年で解消となった[3]。また、バブル景気の崩壊と、後述の中谷明彦のF1参戦白紙化が影響し、このシーズン限りで多くの日本企業のスポンサーが撤退した。
消滅F1参戦最終年 デイモン・ヒルが乗るBT60B(1992年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:95 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef