ブラッド・ペニー
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ブラッド・ペニー
Brad Penny
デトロイト・タイガースでの現役時代
(2011年4月4日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地オクラホマ州ブラックウェル
生年月日 (1978-05-24) 1978年5月24日(45歳)
身長
体重6' 4" =約193 cm
270 lb =約122.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1996年 MLBドラフト5巡目(全体155位)
初出場MLB / 2000年4月7日
NPB / 2012年4月4日
最終出場NPB / 2012年4月4日
MLB / 2014年9月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ブロークン・アロー高校

フロリダ・マーリンズ (2000 - 2004)

ロサンゼルス・ドジャース (2004 - 2008)

ボストン・レッドソックス (2009)

サンフランシスコ・ジャイアンツ (2009)

セントルイス・カージナルス (2010)

デトロイト・タイガース (2011)

福岡ソフトバンクホークス (2012)

サンフランシスコ・ジャイアンツ (2012)

マイアミ・マーリンズ (2014)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

獲得メダル
男子 野球
アメリカ合衆国
パンアメリカン競技大会
銀1999野球

ブラッドリー・ウェイン・ペニー(Bradley Wayne "Brad" Penny , 1978年5月24日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州出身の元プロ野球選手投手)。
経歴
プロ入り前

オクラホマ州ブラックウェルで誕生。州内のブロークンアロー高校野球部で活躍し州選抜に選ばれる。
プロ入りとダイヤモンドバックス傘下時代

1996年ドラフトで、2年後の1998年に創設される新球団アリゾナ・ダイヤモンドバックスから5巡目(全体155位)指名を受け、その日に入団契約を交わした。球団が正式にナ・リーグ加盟するまでの2年間は、アリゾナ・リーグ(ルーキー級)、ミッドウエスト・リーグ(A級)でプレー。

1998年にはA+級ハイデザート・マーベリックスに昇格してフルシーズン投げ、28試合164イニングで14勝5敗・防御率2.96・35与四死球・207奪三振という成績を残す。この活躍により、所属するカリフォルニアリーグにおいて、『ベースボール・アメリカ』選出のMVPと最優秀投手賞を受賞した[1]
マーリンズ時代

1999年7月8日にマット・マンタイとのトレードで、ブラディミール・ヌニェス(英語版)、エイブラハム・ヌニェス(英語版)と共にフロリダ・マーリンズへ移籍した。7月から8月に開催されたウィニペグパンアメリカン競技大会の野球アメリカ合衆国代表に選出された[2]

2000年4月7日のロッキーズ戦でメジャーデビュー。この日は7イニングを投げ被安打6・失点1の好投で、吉井理人との投げ合いを制してデビュー戦を白星で飾った[3]。メジャー1年目は23試合で8勝7敗・防御率4.81という成績を収めた。

2001年はシーズン途中に8連敗を喫したこともあったが、最終的には自身初の2桁勝利を挙げる。

2002年は故障で8勝どまりだったが、シーズン終了後には日米野球にMLB選抜の一員として参加。

2003年には先発ローテーションの一員として14勝10敗・防御率4.13を記録した。この年はチームがワールドシリーズ優勝。ペニーはこのシリーズでヤンキース相手に2勝して、チームの世界一に貢献した。
ドジャース時代ドジャース時代(2008年)

2004年7月30日にポール・ロデューカギレルモ・モタフアン・エンカーナシオンとのトレードで崔煕渉ビル・マーフィーと共にロサンゼルス・ドジャースへ移籍した[4]。ドジャースはペニーをさらにトレードしてダイヤモンドバックスからランディ・ジョンソンを獲得しようと目論んでいたが、トレード拒否権を持つジョンソンがドジャースへの移籍に同意しなかったため、ペニーはドジャースに残留することになった[5]

2005年4月下旬から本格的にドジャースの先発ローテーション入り。同年6月、2006年からの3年総額2500万ドル(4年目は球団オプション)という条件で契約を延長した[6]

2006年は前半戦で10勝2敗・防御率2.91という成績を残し、オールスターゲームに初選出された。試合ではナ・リーグの先発投手を務め、初回はイチローデレク・ジーターデビッド・オルティーズを3者連続三振に斬ってとったが、2回にはブラディミール・ゲレーロにソロ本塁打を浴びている[7]。するとオールスター明けの後半戦は、バッテリーを組むラッセル・マーティンが「カーブスプリッターの調子が今ひとつだった」と語るように不調に陥り[8]、6勝7敗・防御率6.25と失速した。シーズン16勝はリーグ最多(他5人とタイ)で、自身初のタイトルを獲得したが、ポストシーズンでは腰痛のために中継ぎに回された[9]

2007年は、マーティンが「変化球を思ったところに投げられる」と評するように好調を維持[8]。また、試合中盤の5回・6回にスタミナ切れを起こして大量失点するというケースも減り、結果として防御率が前年より1.30向上、クオリティ・スタートの数も前年の16から26まで増えるなど、安定感が増した[10]


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