ブラッディクリークの戦い
アン女王戦争中
1702年当時のポートロワイヤル
時1711年6月10日(1711年6月21日)
場所{{{place}}}
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度49分0秒 西経65度17分0秒 / 北緯44.81667度 西経65.28333度 / 44.81667; -65.28333
1711年のブラッディクリークの戦い(ブラッディクリークのたたかい、Battle of Bloody Creek)は、1711年6月21日(6月10日)[4]、アン女王戦争中に行われた戦闘である。アベナキ族が、アナポリス川岸で、イギリスとニューイングランド民兵連合軍を待ち伏せして勝利を収めた戦いで、後にこの場所は、この戦闘にちなんでブラッディクリークと呼ばれるようになった。現在の、ノバスコシア州カールトンコーナーのアナポリス川に注ぐこの水路(クリーク)では、1757年にも戦闘が行われた。
この戦闘は、アナポリスロイヤルを守っていたイギリス軍の戦力を削ぐための、ヌーベルフランスによる策略の一部だった。イギリスは、その前年にポートロワイヤルを攻略したばかりで、この地域の守りに多くの人数を割けなかった。この攻略で、すべての兵が戦死または捕囚されたことにより、フランスとインディアンの同盟軍は奮い立たせたが、彼らには大砲がなかったため、イギリス軍を効果的に攻められず、またイギリスが海路援軍をよこしたため、戦闘を放棄した。 ノバスコシア州のポートロワイヤル、現在のアナポリスロイヤルは元々アカディアの首都であり、アカディアが発見された翌年の1604年に入植がはじまって、それから100年の間、アカディアの首都であり続けた。その結果、この地域は、イングランドの植民地とアカディア住民との限定的な争いの場となり、1613年、サミュエル・アーガイル
歴史的背景
1710年のポートロワイヤルの戦いで、ニューイングランド民兵とフランシス・ニコルソン率いるイギリス海兵隊がこの地を攻略し、アナポリスロイヤルと名を改め、砦もアン砦と改称された。またその後、民兵と海兵隊から成る約450人の兵が砦に駐屯した[7]。その後何カ月かの間に、正規兵も駐屯隊に加わったが、駐屯隊の存在が功を奏していたのは、砦とその周辺だけだった[8]。砦から3マイル(4.8キロ)以内に住むアカディア人は、駐屯隊の保護下にあったが、そのアカディア人たちには、イギリス国王への忠誠が強要された。481人のアカディア人が忠誠を誓うように言われたが[9]、1711年の1月半ばの時点で、実際に誓いを立てたのは57人にすぎなかった[10]。
ポートロワイヤル陥落の知らせがフランスに届いた時、海軍大臣のポンシャルトラン伯爵ルイ・フェリポーは、フランス人カトリック宣教師を、現在のメインとニューブランズウィックのワバナキ連盟(アルゴンキン語族の連盟)に派遣し、フランスはこの地で強力な足場を築くことができた[11]。また、フランス人の父とペノブスコット族の母を持つベルナール=アンセルム・ダバディ・ド・サンキャスタンはアカディアの最高指揮官に任命され、伝道師たちと同様の命令を受けた[12]。