ブラックフェイス
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この項目では、アメリカのエンタテイメントについて説明しています。2000年代に日本で流行したスタイルについては「ガングロ」をご覧ください。
ジャズ・シンガー』(1927年)のアル・ジョルソン

ブラックフェイス (英語: blackface) は、黒人以外の演者が黒人を演じるために施す舞台化粧、それに起因する演者および演目。19世紀に流行し、「プランテーションのハッピー・ゴー・ラッキー・ダーキー」(のんきな黒人。ダーキーは蔑称)、「ダンディ・クーン」(クーンは黒人を表す蔑称)など人種的ステレオタイプを広める結果となった[1]。1848年までに、ブラックフェイスのミンストレル・ショーが全米で流行し、オペラなどのフォーマルな作品を作り替えて一般に流行させた[2]。20世紀初頭、ブラックフェイスはミンストレル・ショーの枠から外れて独自のスタイルとなったが、1960年代、アフリカ系アメリカ人公民権運動により終焉した[3] 1900年、ウィリアム・H・ウエストによるミンストレル・ショーのポスター。白人から黒人への変身を売り物にしていた。ストロブリッジ・リトグラフ社の出版。

1830年頃から約100年、アメリカの劇場においてブラックフェイスは重要な伝統的演目であった。すぐに流行は広まり、イギリスでは1978年まで続いた『The Black and White Minstrel Show』[4]、1976年と1981年の『Are You Being Served?』のクリスマス・スペシャルが放送されるなど、アメリカより長続きした[5][6]。アメリカでもイギリスでもブラックフェイスはミンストレル・ショーにおいてもっともよく用いられていた。白人俳優は初期には焼きコルク、後期にはドーランや靴墨で顔を黒く塗り、唇を誇張し、また縮れたカツラ、手袋、燕尾服あるいはぼろ服を着用することもあった。のちに黒人俳優もブラックフェイスで演じることもあった。

ブラックフェイス・ミンストレルのストックキャラクターを具象化したステレオタイプは人種的イメージ、行動、感覚を世界中に植え付けただけでなく、黒人文化の人気に拍車をかけた[7]。現在、ブラックフェイスのカリカチュアは議論を引き起こす。一方で、ブラックフェイスは単に自分と違う性別、身分、人種を表す異性装と同義だという意見もある[8]

20世紀半ばまでに人種および人種差別に対する考え方が変わっていき、ブラックフェイスによる演目はなくなっていった。現在では演目上必要な時に限り、また社会的主張や風刺にのみ使用される。ブラックフェイスの恒久的影響は良くも悪くもアフリカ系アメリカ人文化を世界に広めるきっかけとなったこととされる[9][10]。ブラックフェイスはアフリカ系アメリカ文化の盗用[9][10][11]搾取同化[9]の先駆けともなり、無数に派生して世界のポピュラー・カルチャーの一部となっている[10][12][13]
歴史
黒さの表現および差別への成り立ち 1878年、『オセロ』のアメリカ人俳優ジョン・マカロウ

ブラックフェイスの起源ははっきりしていない。文化コメンテイターのジョン・ストラスボウは遅くとも西アフリカ人がポルトガルに連れていかれた1441年頃から伝統的に「白人の観客の楽しみおよび啓蒙のため黒さを表現していた」と語った[14]。白人たちはエリザベス朝ジャコビアン時代イギリス・ルネサンス演劇で『オセロ』(1604年)などで黒人登場人物を演じていた[4]。しかし『オセロ』などこの時代の演劇では黒人の音楽や行動などの模倣や誇張はなかったとされる[14]。1769年5月29日、ニューヨークのジョン・ストリート劇場で、アメリカン・カンパニーでブラックフェイスの白人俳優として有名であったルイス・ハラム・ジュニアがイギリスのオペラ『The Padlock』の酔っ払いの黒人マンゴー役を演じてブラックフェイスの原型となった[15]。この演技は好評で、他の役者たちもこのスタイルを取り入れるようになった。遅くとも1810年代にはアメリカでブラックフェイス道化師が人気となった[16]。1822年から1823年、イギリス人俳優チャールズ・マシュウズは全米ツアー公演を行ない、次の公演『A Trip to America』に黒人キャラクターを加え、奴隷の歌『Possum up a Gum Tree』を歌った[17]。1823年、エドウィン・フォレストはプランテーションの黒人を演じ[17]、1828年にはジョージ・ワシントン・ディクソンがブラックフェイスでのキャリアを確立していた[18]。しかし1828年、他の白人コメディ俳優トーマス・D・ライスがブラックフェイスで『Jump Jim Crow』を踊りながら歌い人気が爆発し[19]、1832年までにスターダムにのし上がった[20] 1908年頃の白人によるミンストレル劇団の絵葉書。カツラを装着し、左はブラックフェイスで異性装をしている

ライスは「ダディ・ジム・クロウ」という芸名で全米をツアー公演した。レコンストラクション後、人種差別の撤廃を示す「ジム・クロウ法」に名付けられた[21]

1830年代から1840年代初頭、ブラックフェイスはスケッチ・コメディーコミックソング、そして激しいダンスをミックスして演じていた。当初ライスとその同僚たちは安劇場でのみ演じていたが、ブラックフェイスの人気が上がると上流階級が出入りするような劇場での出演が増えていった。ブラックフェイスのキャラクターのステレオタイプは、おどけていて、怠け者で、迷信深く、臆病で、好色であり、泥棒で、病的に嘘つきで、英語が下手である。初期のブラックフェイスのミンストレルは全て男性だったため、異性装で黒人女性を演じてグロテスクに男らしく魅力がなく、典型的南部のマミー(黒人の肝っ玉母さん)タイプか、性的にとても挑発的な演技を していた。1830年代のアメリカの舞台でブラックフェイスの人気が上がり、賢いヤンキーと伝説的開拓者のステレオタイプがコミカルに演じられた[22]。19世紀後期から20世紀初頭、アメリカとイギリスの舞台は繁盛し続け[23]、強欲なユダヤ人[24][25]、酔っ払いで喧嘩早いおべっか使いのアイルランド人;[25][26][27]、油まみれのイタリア人[25]、面白みのないドイツ人[25]、騙されやすい田舎者[25]など主に民族的ステレオタイプがコミカルに演じられていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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