ブラックヒルズ戦争
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ブラックヒルズ戦争
Black Hills War
インディアン戦争

1868年のララミー砦条約で保証された「偉大なスーの国(グレート・スー・ネイション)」(桃色の枠線内)と、「ブラックヒルズ戦争」で合衆国が条約を破ってブラックヒルズごと強奪したスー族の領土(左側、黄色の斜線部分)

1876年-1877年
場所モンタナ準州ダコタ準州
結果アメリカ陸軍の勝利

衝突した勢力
 アメリカ
ショーショーニー族(斥候)
クロウ族(斥候)
ポーニー族(斥候)ラコタスー族
シャイアン族
アラパホー
指揮官
ネルソン・マイルズ
ジョージ・アームストロング・カスター
ジョージ・クルック
ウェズリー・メリットいない
被害者数
300250-280

ブラックヒルズ戦争(ブラックヒルズせんそう、英:Black Hills War、または1876年から1877年のグレート・スーの戦争、英:Great Sioux War of 1876-77)は、1876年から1877年に掛けて、スー族の領土にあるブラックヒルズの金鉱を占領するため、合衆国が和平条約を破ってスー族、シャイアン族アラパホー族インディアンに行った「インディアン戦争」(民族浄化)。

リトルビッグホーンの戦い」で、インディアンたちがカスター中佐第7騎兵隊を全滅させたことで知られる。
概要

拡大する一方のアメリカ合衆国の植民地は、19世紀初頭にミズーリ川を越え、西部に植民地領土(フロンティア)を拡げつつあったが、その障害となったのが原住民インディアンたちの存在だった。トーマス・ジェファーソンに始まる米国大統領たちは、インディアンを絶滅させ、その領土を合衆国のものとするため、「インディアンに合衆国が指定保留した保留地に条約を基に強制移住させ、その領土を割譲させる」という保留地政策を推し進めた。

合衆国は9部族から1万人を集めた1851年のララミー砦条約(英語版)で、インディアンの保留地を設定した。保留地には米軍の駐屯所である砦が置かれ、インディアン管理官の管理のもと、領土と引き換えにした年金(食糧)が保留地のインディアンたちに配給される手筈だった。しかし、その民族浄化政策はインディアンたちの反発を生んだ。その中でも最大の抵抗勢力は一大騎馬略奪部族であるスー族だった。

レッドクラウド戦争の後で合衆国はスー族と1868年のララミー砦条約(英語版)を結び直し、スー族や周辺の平原インディアンの聖山であるブラックヒルズを含む、今日のサウスダコタ州のほぼ全域を「白人の侵犯の許されない、スー族の不可侵の領土」(偉大なるスーの国)と確約した[1]

この条約は締結後数年で合衆国自らによって破られた。ブラックヒルズには、白人たちが喉から手が出るほど欲しがっている金を始め、地下資源が豊富だったからである。米軍のジョン・E・スミス大佐はブラックヒルズについて、「(スー族の保留地の中で)唯一価値ある場所」と述べ、「まさにそこからスー族の絶滅が始まるに違いない」と結論づけた[2]

1874年、連邦政府はブラックヒルズを調査するために不可侵条約を侵し、カスター遠征隊を派遣し、スー族の反発を呼んだ。カスターは「ブラックヒルズにはブーツで蹴り飛ばせるほど金塊がごろごろしている」と大げさに発表し、この金脈発見の報せは合衆国中を駆けめぐった[3]。貴金属資源の存在は翌年のニュートン・ジェニー地質調査隊によって確認された[4]。1873年の経済恐慌によって食い詰めた白人たちは、金を狙ってララミー砦条約を侵犯してブラックヒルズ内に殺到した。当初米軍は金の採掘者たちを締め出そうとした。1874年12月には、アイオワ州スーシティからやってきたジョン・ゴードンに率いられた探鉱者たちは、米軍の警戒を擦り抜け、ブラックヒルズに達して、3ヶ月後にやっと追い出された。しかしこのような排除策は、ユリシーズ・グラント政権に対し、スー族から早くブラックヒルズを奪い取るようにとの政治的な圧力を高めるだけだった。

1875年夏、スー族の酋長達がワシントンD.C.に招かれ、グラント大統領はブラックヒルズを合衆国に譲るよう説得した。この交渉は失敗した。その年の秋、インディアン管理所のそれぞれに和平委員が派遣され、スー族との和平協議会を開いてスー族の「指導者達」に新しい条約に調印させるよう圧力を掛けることとなった。この時もブラックヒルズを手に入れようとする合衆国の試みは失敗した[5]。聖山ブラックヒルズに白人の手が伸びようとする危機感の中で、スー族最大のバッファロー狩猟場を分断するノーザン・パシフィック鉄道が建設され、スー族の不満は高まる一方だった[6]

合衆国はどうあってもブラックヒルズの金鉱が欲しかった。しかし同山の所有権は合衆国自身がスー族に対して条約で保証してしまっていた。合衆国は「和平委員会」を組織し、ブラックヒルズを合衆国に明け渡す新しい条約に署名(×印を書き込む)するよう、スー族の「指導者」達に要求した。だがスー族は白人の命令に従わなかった。合衆国は金鉱を手に入れるため、合衆国に従わないスー族ら「野蛮」な「悪いインディアン」を軍事力によって絶滅させることとした。
白人の誤解

合衆国の白人たちは、インディアンの文化について、根本的に勘違いをしていた。白人たちはインディアンの酋長を、「部族を率いる指導者」だと思い込んでいたのである。しかし、完全合議制民主主義社会であるインディアンの社会では、独任制の「首長」や「部族長」は存在しない。「部族の指導者」だと白人が考えている「酋長」は、実際は「調停者」であって、「指導者」ではない。インディアンの戦士は、おのおの個人の判断で行動するものであって、誰かに指図されるような存在ではない。白人が考えるような「軍事指導者」や「戦争酋長(War Chief)」は、実際にはインディアン社会には存在しない。インディアンの戦士団は集団であって、命令系統のもとで動くような「軍隊」、「隊」ではない。

しかし、「酋長」を「指導者」と思い込んでいる白人たちは、それまでのインディアンとの条約交渉でもそうであったように、スー族に対しても、「部族長」、「大指導者」と盟約を結ぼうとした。彼らが調停書に署名(×印を書き込むだけである)すれば、スー族はこれに従うだろうと考えたからである。しかし、スー族を始め、インディアンの社会にこのような「絶対権力者」は過去にも現在にも存在しない。

「気前の良さ」を美徳とし、すべてを共有するのがインディアンの文化である。「調停者である酋長が紙に×印を書いたから、領土を明け渡せ」と言われて納得するインディアンはいなかった。和平委員会は、「言うことを聞かなければ我々の戦争酋長(War Chief)がお前たちを殺しに軍隊をよこす」と警告したが、これもスー族には理解不可能だった。「戦争酋長」というものはインディアンの社会には存在しないからである。スー族は、盟約を破り次から次へと要求を変える白人に、「白人には一体何人酋長(調停者)がいるのか」と、不信を募らせる一方だった。

インディアンの文化を理解していない白人のこうした思い込みによる力づくの和平は、インディアン戦士の怒りと不満を買うばかりだった。
合衆国の最後通告ジョージ・クルック

グラント政権は外交手段ではブラックヒルズが手に入らないと悟ると、白人たちは別の手を考えざるを得なかった。1875年11月初旬、ミズーリ方面軍指揮官フィリップ・シェリダン少将とプラット方面軍指揮官ジョージ・クルック准将がワシントンD.C.に呼ばれ、グラントや数人の閣僚と会見してブラックヒルズ問題を検討した。彼等は陸軍がスー族の保留地から白人の金採掘者を追い出すのを止めるべきであり、ブラックヒルズをゴールドラッシュの渦中に置くべきとする合意に至った。

さらに、インディアン管理所に出頭しないスー族やシャイアン族の中の、まだ条約を結んでいない部族に対して軍事行動に出ることも検討した。インディアン調査官のアーウィン・C・ワトキンスもこの選択肢を支持する報告書を提出した。「私の判断の真の政策は」とワトキンスは書き、「できるだけ早く、冬季であっても軍隊を派遣して、彼等を叩いて従わせることだ」とした[7]

1875年12月、インディアン問題委員会は、ミズーリ以西にある指定保留地のスー族「代表者」に対する、次のような最後通告を行った。「拝啓、内務省長官の下命により、指定保留地外のダコタおよび東モンタナを徘徊するシッティング・ブルら、狂暴かつ無法なスー族インディアンに対し、以下の趣旨を伝えられるよう、ここに要請する。すなわち、来る一月末までに指定保留地に戻り、該当地に留まらない場合、当該のインディアンたちは我々に敵意あるものとみなし、軍事力によって、相応の報いを受けるものとする。」

この地域のインディアン代理人達はスー族を敵に回すことを非常に恐れていた。彼らはまだ条約を結んでいない部族に伝令を送って、1876年1月31日までに保留地の砦に来るよう要求し、さもなくば軍隊を送って攻撃すると脅すよう指示された。スタンディングロック保留地管理所のインディアン管理官は、この伝達を行ったが、雪深い真冬のこの時期に、このような馬鹿げた要求に従うインディアンなど一人もいなかった。そもそもインディアンに「部族の代表」などいないのである。


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