ブラジルの映画は、ブラジルの資本と人材によって製作された映画である。本項ではブラジル合衆国時代から現在のブラジル連邦共和国までの映画産業、および映画史について述べる。
歴史
黎明期で、フランスのリュミエール兄弟の映画の興行が行なわれたのが最初である[2]。1898年(明治31年)6月には、イタリアから移住したアフォンソ・セグレトによって、ブラジルで最初の映像として、グアナバラ湾の実景が撮影された[2]。スペインから移住したフランシスコ・セハドールが、最初の映画館チェーンを築いた[2]。
1908年(明治41年)、最初の劇映画『アナスタシオ爺さんの旅行』(Nho Anastacio Chegou de Viagem)が製作、公開された[2]。
1913年(大正2年)にフランチェスコ・サントスによって最初の長編映画『パナオスの犯罪』が製作された[3]。1925年(大正14年)にはサンパウロにシネクラブが創設され、1930年代にはブラジルサイレント映画で最も高く評価されている[4]マリオ・ペイショト監督の『限界』(1931)が製作された。ブラジルのサイレント映画はウンベルト・マウロ、アデマル・ゴンザーガ共同監督の『残酷な首枷』(1933)によって最後を迎えた。 1930年代には、アデマル・ゴンザーガ監督、カルメン・ミランダ主演の『アロー・アロー・ブラジル』(1934)が国際的に成功した[4]。 1940年代から1950年代にかけてはハリウッド映画が国内で影響力を保った[5]。1941年(昭和16年)、映画製作会社アトランティダ・シネマトグラフィカ
トーキーの時代
1950年代には国際的に評価を集めたリマ・バヘット監督の『カンガセイロ』(1952)や、後のシネマ・ノーヴォ運動に繋がるネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の『リオ40度』(1955)などが製作された。しかし、国産映画に比べてハリウッド映画の影響力は圧倒的だった[6]。 1960年代に入るとキューバ革命フランスのヌーヴェルヴァーグやイタリアのネオレアリズモの影響により、ラテンアメリカ映画の新時代が始まった[7]。リオデジャネイロの若者の間に興った映画運動であるシネマ・ノーヴォは、三期に分けられ、それぞれ1960年からブラジル・クーデタ 1976年(昭和51年)、サンパウロ国際映画祭が開始される。 シネマ・ノーヴォ運動終焉の後は、ジョゼ・デ・アレンカール原作、ジョルジェ・ボダンスキ 映画産業の危機を受けて1990年(平成2年)3月にフェルナンド・コーロル大統領によってブラジル映画配給公社
新映画運動
1970年代以降
危機を乗り越えて