ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(ドイツ語: Haus Braunschweig-Luneburg)は現ドイツ・ニーダーザクセン州のブラウンシュヴァイク=リューネブルク一帯を統治したヴェルフ家のことを指す。この一族は後にハノーファー、ブラウンシュヴァイクの君主として発展し、ロシア皇帝やグレートブリテン連合王国の国王も輩出している。
概要「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク」も参照
ヴェルフ家出身のハインリヒ獅子公の孫で神聖ローマ皇帝オットー4世の甥であるオットーは伯父の遺領を継承してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世と称した。これに因んでニーダーザクセンのヴェルフ家一門はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家と呼ばれるように至った。
オットー1世の死後、その遺領が2人の息子アルブレヒト1世とヨハンの間で分割されたのを皮切りに、以後は一族間での領土分割が一種の慣例となっていく。長年に渡り、公国の分割と断絶、それに伴う統合を繰り返した結果、カレンベルク系が公国の大半を統治し、ベーヴェルン系が残りの部分を統治することになった。殊にカレンベルク系のエルンスト・アウグストは選帝侯位を獲得し、その息子のゲオルク・ルートヴィヒはグレートブリテン連合王国の国王の地位に就いている。他方、ベーヴェルン系からはイヴァン6世がロシア皇帝に選出されている。なお、王家及び選帝侯の名称として一般にハノーヴァーの名が使われているが、正式名称はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯であり、王家の名称もブラウンシュヴァイク=リューネブルクの名が専ら使用された。
ナポレオン戦争期に一族は危機を迎える。神聖ローマ帝国の崩壊で選帝侯位を喪失し、イエナ・アウエルシュタットの戦いで一族の重鎮であったヴォルフェンビュッテル侯カール・ヴィルヘルム・フェルディナントが討ち死にし、公国はフランスの衛星国であるヴェストファーレン王国に吸収されたのである。戦後のウィーン会議でハノーファー王国とブラウンシュヴァイク公国が設立されたが、これによってハノーファーとブラウンシュヴァイクが明確に区分されたと言っても良い。 オットー1世の次男ヨハンはリューネブルクを相続したが、1369年に孫のヴィルヘルム2世の死で断絶した。 オットー1世の長男アルブレヒト1世はブラウンシュヴァイクを相続し、曾孫のマグヌス2世はヴィルヘルム2世の死で相続人がいなくなったリューネブルク侯領も相続した。しかし、ヴィルヘルム2世の外孫でアスカーニエン家出身のアルブレヒト3世及び叔父のザクセン選帝侯ヴェンツェルとリューネブルク継承戦争 長男のフリードリヒ1世は戦争を終結させリューネブルクを手に入れ、ルクセンブルク家出身のローマ王ヴェンツェルの対立王に選出されるも1400年に暗殺された。公国はフリードリヒ1世の弟であるハインリヒ1世がリューネブルクを、ベルンハルト1世がブラウンシュヴァイクをそれぞれ分割相続したが、後に侯領を相互交換した。 当初はマグヌス2世の次男であるベルンハルト1世がブラウンシュヴァイクを継承したが、1428年に甥でハインリヒ1世の息子であるヴィルヘルム1世が継承し、以後はヴィルヘルム1世の子孫が専らブラウンシュヴァイクを統治することになる。ヴィルヘルム1世の息子ヴィルヘルム2世は1491年に長男のハインリヒ1世にヴォルフェンビュッテルを、1495年に次男のエーリヒ1世にカレンベルクをそれぞれ譲った。後者は1584年に絶えて前者が継承することになったが、それも1634年のフリードリヒ・ウルリヒの死で断絶した。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の分枝「リューネブルク君主一覧」および「ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧」も参照
古リューネブルク家
古ブラウンシュヴァイク家
中ブラウンシュヴァイク家
中リューネブルク家
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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