ブラウンシュヴァイク自由州
Freistaat Braunschweig (ドイツ語)
ヴァイマル共和政(ドイツ国)の州
旗紋章
Brunswickの位置ドイツ国における位置
政庁所在地ブラウンシュヴァイク
政府
ブラウンシュヴァイク自由州または
ブラウンシュヴァイク自由国(ドイツ語: FreistaatBraunschweig)は、ヴァイマル共和政下のドイツ国にあった州である。ドイツ革命で解体されたブラウンシュヴァイク公国の領土がそのまま自由州となった。首都はブラウンシュヴァイクに置かれていた。
歴史ブラウンシュヴァイク自由州の範囲(第二次世界大戦後の東西ドイツ国境も描かれている)
ブラウンシュヴァイク公国は、1814年のウィーン会議の後、ドイツ連邦の領邦国家として成立した[1]。その範囲は、西はヴェーザー川沿いのホルツミンデンから東はハルツ山地のブランケンブルクとカルフェルデまで伸びるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の領地であったが、一つながりではなく多くの飛び地があった[2]。
ブラウンシュヴァイク公国の領土は、プロイセンのハノーファー州 (旧ハノーファー王国) とザクセン州にそのほとんどを囲まれていた[2]。1913年にはハノーファー家のエルンスト・アウグストがブラウンシュヴァイク公として即位した[3]。 1918年11月3日のキールの反乱の知らせを受けたドイツ独立社会民主党 (USPD) は、地元の革命家を率いて刑務所を襲撃し、鉄道駅と警察本部を占拠した他、ブラウンシュヴァイク宮殿に攻撃を加えた。11月8日にはブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグストは退位を余儀なくされ、亡命した[4][5]。11月10日には独立社会民主党革命評議会(レーテ)が統治する「ブラウンシュヴァイク・レーテ共和国」の樹立を宣言した。 しかし、1918年12月22日に行われた最初の議会選挙で、独立社会民主党は得票率27.7%を押さえたドイツ社会民主党 (SPD) の後塵を拝し、ソビエト共和国を建国する試みは失敗に終わった[6]。1919年2月22日には独立社会民主党のヨーゼフ・"ゼップ"・オーターを首班とする独立社会民主党・社会民主党の連立政権[7]が発足し、議会制民主主義共和国を志向した。しかし、共産主義者を中心とするスパルタクス団が首都ブラウンシュヴァイクで蜂起し、4月9日にゼネストを呼びかけるなど混乱した。その4日後、ドイツ国政府はブラウンシュヴァイクに非常事態を宣言し、ゲオルク・ルートヴィヒ・ルドルフ・メルカー率いるドイツ義勇軍の支援を受けてスパルタクス団を鎮圧した[8][9]。ブラウンシュヴァイク州議会議事堂 1919年4月30日にはブラウンシュヴァイク議会で社会民主党のハインリヒ・ヤスパーを首相とする社会民主党、独立社会民主党、ドイツ民主党の連立政権が発足した。
革命