ブライアン・ボル
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ブライアン・ボル
アイルランド語: Brian BorumaまたはBrian Boroimhe
英語:Brian Boru
アイルランド上王
アイルランド上王ブライアン・ボル(18世紀、エングレービング)
在位1002年 - 1014年(アイルランド上王)
978年 - 1014年(マンスター王)
別号マンスター王

全名ケネティクの子ブライアン・ボルマ
(Brian Boruma mac Cennetig)
出生941年
アイルランドマンスター地方、キラロー(Killaloe)、キンコーラ(Kincora)
死去1014年4月23日
アイルランドレンスター地方、クロンターフ(Clontarf)
埋葬アーマー、聖パトリック大聖堂
配偶者モア(Mor)
 Echrad
 ゴルメス (Gormflaith)
 Dub Choblaig
子女ムラハ(Murchad)
コンホバル(Conchobar)
フラン(Flann)
タドグ
ドナハ(Donnchad)
ドーナル(Domnall)
Kerthialfad (養子)
Sadb
Be Binn
Slani
家名オブライアン家(en:O'Brien dynasty)
ドール・カイス(en:Dal gCais)
父親ラルカンの子ケネティク
(Cennetig mac Lorcain)
母親Urchadhの娘Be Binn
(Be Binn inion Urchadh)
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ブライアン・ボル (Brian Boru、941年 – 1014年4月23日、古アイルランド語:Brian Boruma mac Cennetig、中期アイルランド語:Brian Boruma、現代アイルランド語:Brian Boroimhe)はアイルランド王。それまで続いていたアイルランドの名家イー・ネール(en:Ui Neill)一族によるアイルランド上王の独占を終わらせた。父ラルカンの子ケネティクおよび、特に兄マスガマンの業績を元に、ブライアンはまずマンスター王(en:King of Munster)になり、次いでレンスターを征服し、最終的にアイルランド王になった。また、彼はアイルランドの名門オブライアン家(en:O'Brien dynasty)の創始者である。
概要

当時のアイルランドには、人口が50万人以下だったのに対し大小さまざまな地域に150人以上の王が乱立していた[1]

前のアイルランド上王であった南イー・ネールの王ドムナルの子モール・セックネール(Mael Sechnaill mac Domnaill)は、同族である北イー・ネールの主力の2つの分家ケネル・エオガン(Cenel nEogain)とケネル・ゴニル(Cenel Conaill)に見捨てられながらも、1002年にアスロン(Athlone)でブライアンを新しい上王として認めた。 続く10年間、ブライアンは彼の権限を拒絶した北イー・ネール、頻繁に抵抗のあったレンスター地方、ノース系アイルランド人のダブリン王国に対して戦った。ブライアンが苦労して手にした権威は1013年に、同盟者モール・セックネールがケネル・エオガン王フライスバールタッハ・イー・ネール(Flaithbertach Ua Neill)とアルスター人から攻撃されたときに深刻な試練を受けた。この試練はダブリン王シトリック・シルケンベアード(Sihtric Silkbeard、別名Sigtrygg Silkbeard)配下のダブリン人とレンスター王ムラハダの子モール・モルダ(Mael Morda mac Murchada)に率いられたレンスター人によるモール・セックネールへの攻撃へと続いた。1013年にブライアンはこれらの敵と戦闘を行った。

1014年の聖金曜日、ブライアンの軍はダブリン近郊のクロンターフでレンスター・ダブリン連合軍と衝突した。クロンターフの戦いの結果はブライアン、彼の息子ムラハ(Murchad)、そして相手のモール・モルダ(Mael Morda)まで殺される血塗られたものだった。アルスター年代記の貴人の死者のリストにはアイルランド王、ノース系アイルランド人、スコットランド人、スカンディナヴィア人が含まれる。この大量殺戮で一番恩恵を受けた人間は、アイルランド上王に復位したモール・セックネールだった。

ノース系アイルランド人やスカンディナヴィア人も、ニャールのサガ(Njal's Saga)、オークニーのサガ(Orkneyinga Saga)、散逸したブライアンのサガ(Brjanssaga)といった作品でブライアンに言及した。ブライアンのモール・モルダおよびシトリックとの戦争は、ブライアンの複雑な婚姻関係、特に妻ゴルメスのそれともつれ合い絡み合っていた。
生涯
幼少期と背景ダブリン城 チャペルロイヤルの外にあるブライアン・ボルの彫刻

多くのアイルランドの年代記は、ブライアンは1014年にクロンターフの戦いで命を落としたとき数え年88歳だったと記載している。もしそれが正しければ、これは926年か927年という早い時期にブライアンが生まれたことを意味する[2]。逆算で得られる他の生年を示す情報は923年か942年である。[2]

彼は一部族ドール・カイス(en:Dal gCais)の王でありトゥアドゥムム(Tuadmumu、英語表現ではトモンド(en:Thomond))王であったラルカンの子ケネティク(-951年)の、12人の息子の一人であった。トゥアドゥムムは現代のクレア県にあたる、マンスター北部の小王国である。後世の改ざんかもしれないが、ケネティクはキャシェル(ないしマンスター)の王位の相続人か後継候補を意味するrigdamna Caisilとして記録されている。[3]ブライアンの母は西コノートen:Maigh Seolaの王ムラハの子Urchadh(Urchadh mac Murchadh、-945年)の娘Be Binnだった。[2][3] 生まれた土地がen:Ui Briuin Seolaに属す地だったことが、ドール・カイス周辺で珍しいブライアンという名の由来であるかもしれない。[3]

ブライアンはトゥアドゥムムの町キラロー(Killaloe)のキンコーラ(Kincora)で生まれた。[3] ブライアンの死後の姓ボルマ(Boruma、英語表現でボル(Boru))は、キラローの北にあるドール・カイスが支配した砦Beal Borumaを引用したものかもしれない[2][3][4]。ボルマの由来を説明するもう1つの説は、おそらくは後世の再解釈かもしれないが、この異名は強力な君主としての力を引用する古いゲール語boruma(牛の贈り物)を表現している、というものである。[2]

父が死んだ時、トゥアドゥムムの王位はブライアンの兄マスガマンに継承され、マスガマンが976年に殺された時、ブライアンはその地位に就いた。 その後、彼はマンスター王国全土の王となった。[5]
出身部族ドール・カイスの状況

ブライアンはドール・カイス(Dal Cais、またはDalcassians)に属していた。ドール・カイスは今日のクレア県に相当する部分を含むシャノン川河口(en:Shannon Estuary)北部を領有していたen:Deisi起源の新興の一族であり、新しいトモンド王国の中心を形成した。初めの頃彼らの先祖は今日のリムリック県でいくらかの土地を持っていた、しかしその地には9世紀にはen:Ui Fidgentiが侵略し10世紀にはノース人が侵入してきた。

シャノン川コノート・ミース両地方の急襲に手頃な経路だった。 ブライアンの父ケネティクと兄マスガマンは川輸送の強襲を実行しており、そこに若いブライアンは間違いなく参加していたと思われる。これはおそらく後に彼が評価を受ける経歴の1つである海軍のルーツだろう。このドール・カイスに対する重要な影響は、シャノン川の曲がる地峡に位置する (今日では王の島(en:King's Island, Limerick)なりアイランド・フィールド(Island Field)の名で知られる) アイルランド系ノース人の都市リムリックの存在だった。ノース人はシャノン川からたくさんの襲撃を受け、そしてその襲撃の度にドール・カイスはおそらく優れた武器や船の設計、成長力に寄与するであろうすべての要因のような技術革新に触れるなど、いくらかの影響を受けていたと思われる。
兄マスガマンの統治

964年、ブライアンの兄マスガマンは、古くからの由緒あるマンスターの王朝オーガノクト(en:Eoganachta)の都キャッシェル(en:Cashel, County Tipperary)を攻撃して名高い城ロック・オブ・キャシェル(Rock of Cashel)を占領し、マンスター地方全土の支配を主張した。オーガノクトは世襲の王権であり時にはマンスター上王であったが、王朝内部の闘争と度重なる暗殺によって今や無力なまでに弱まっていた。 初めの頃のウィ・ニールとヴァイキング双方からの攻撃も要因の一部であった。 この状況は(オーガノクトにとって)正統的でない地方王権を奪おうと試みる軍国化したドール・カイスの行動を許した。しかしながら、マスガマンは決して完全には認められず、キャシェルからは半ば部外者ながら遠くマンスター南部に勢力を持つ正統なオーガノクトの要求者ブライアンの子モール・ムアドによって960年代と970年代を通じて否定を受け続けた。

また、モール・ムアドに加えて、ノース人の王 リムリックのイーヴァル(Ivar of Limerick)は脅威であった。イーヴァルは、 地方かその中の地域でのいくらかの王権の確立を試みようとしていたようでもあり、アイルランドの諸国との戦争は実は彼がこれを達成していたとさえ主張している。イーヴァルは名高い967年のスルコイトの戦い(Battle of Sulcoit)でマスガマンによって打ち破られたが、しかしながらこの勝利はまだ決定的なものではなく、ノース人の兵士や当局をマンスターから追い出すためマスガマンはモール・ムアド達と一種の短期軍事同盟を結び、やっとのことで972年にリムリックの要塞を破壊した[6]

しかし、権力を要求するアイルランド人の二者はすぐに戦闘状態に戻った。そして、976年に偶然カハルの子ドヌバン(Donnuban mac Cathail)がマスガマンを捕虜にしたことでモール・ムアドは彼を殺し、続く2年間キャシェルの王として支配した。

ブライアンはマスガマンの後を継いだ。ドール・カイスは兄マスガマンがいなくなった後も依然として強い軍事力を保持しており、ブライアンはすぐに自身が兄と同様に優秀な軍事司令官であることを証明した。 既に十分弱体化していたイーヴァルを977年に片付けた後、彼は978年にモール・モルダに挑戦して決定的なベラク・レクタの戦い(Battle of Belach Lechta)で打ち負かした。もはやオーガノクトはマンスターでの存在を失い、血統に基づいたこの地方の伝統的な王位でないながらもブライアンとドール・カイスは覇権を握った。


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