ブライアン・ホロックス
[Wikipedia|▼Menu]

ブライアン・ホロックス
第13軍団(英語版)司令官のブライアン・ホロックス中将(1942年北アフリカ戦線
渾名ジョロックス[注釈 1]
生誕 (1895-09-07) 1895年9月7日
イギリス領インド帝国
ラニケト(英語版)
死没1985年1月4日(1985-01-04)(89歳没)
イギリス
ウェスト・サセックス
チチェスター
所属組織 イギリス
部門 イギリス陸軍
軍歴1913年 ? 1949年
最終階級中将
認識番号5821
部隊ミドルセックス連隊(英語版)
指揮イギリス陸軍ライン軍団
西部司令部(英語版)
第30軍団(英語版)
第9軍団(英語版)
第10軍団(英語版)
第13軍団(英語版)
第9機甲師団(英語版)
第44(ホームカウンティー)歩兵師団(英語版)
第9歩兵旅団(英語版)
ミドルセックス連隊(英語版)・第2大隊
戦闘第一次世界大戦
ロシア内戦
アイルランド独立戦争
第二次世界大戦
受賞バス勲章ナイト・コマンダー
大英帝国勲章ナイト・コマンダー
殊功勲章
武功十字章(英語版)
殊勲者公式報告書(英語版)への記載(計3回)[2][3][4]
ゲオルギオス1世勲章コマンダー(英語版)(ギリシャ
オラニエ=ナッサウ勲章ナイト・グランド・オフィサー(英語版)(オランダ
王冠勲章グランド・オフィサー(英語版)(ベルギー
従軍十字章(英語版)(ベルギー)
レジオンドヌール勲章コマンドゥール(フランス)
1939年-1945年従軍十字章(英語版)(フランス)
レジオン・オブ・メリット勲章コマンダーアメリカ合衆国
他職業黒杖官
テレビ番組司会者
作家

サー・ブライアン・グウィン・ホロックス(英語: Sir Brian Gwynne Horrocks、KCB, KBE, DSO, MC、1895年9月7日 - 1985年1月4日)は、イギリスの軍人。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦では第30軍団(英語版)を率いてマーケット・ガーデン作戦の指揮を執ったことで知られる。

ホロックスは第一次世界大戦ロシア内戦にも参戦しており、その最中二度戦争捕虜になった。また、1924年に開催されたパリオリンピック近代五種競技で出場している。退役後はテレビ番組司会者や軍事史家としての執筆活動をこなし、14年間黒杖官を務めた。

1940年フランスの戦いでは、バーナード・モントゴメリーの下で大隊の指揮を執った。後にモントゴメリーはホロックスを最も有能な将校の一人と認識し、アフリカヨーロッパの両面で軍団の指揮を任せている。1943年、ホロックスは重傷を負い、再びヨーロッパで軍団の指揮を執れるほどに回復するまで1年を要した。この時の長期離脱により臨時で軍団の指揮官となったオリヴァー・リース(英語版)やマイルズ・デンプシー(英語版)が、イギリス陸軍全軍やそれ以上に匹敵する指揮を執ったため、彼は昇進の機会を失ったと考えられる[5]。 ホロックスがこの時負った傷は後遺症として度々彼を苦しめ、戦後の早期退役に繋がった。

1945年以降、ホロックスはイギリスの将官として最も成功を収めた人物として認知されるようになり、「単なる二等兵まで全員と話をした将軍」[6]、「軍団司令官の美の極致」[7]などと謳われた。西ヨーロッパの連合軍最高司令官を務めていたドワイト・D・アイゼンハワーは、彼のことを「モントゴメリーの下で傑出したイギリス将官」と評価している[8]
前半生と第一次世界大戦

ブライアン・グウィン・ホロックスは、1895年9月7日イギリス領インド帝国のラニケト(英語版)で生まれた。父親は王立陸軍医療軍団(英語版)の「ランカシャー生まれ」の医師であるサー・ウィリアム・ホロックス(英語版)大佐、母親は「アイルランド人のような魅力と朗らかさをもっていた」ミナ・ホロックスであり、ブライアンは彼らの一人息子である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:130 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef