ブライアン・ヘントン
1971年
基本情報
国籍 イギリス
出身地同・レスターシャー州
キャッスル・ドニントン
ブライアン・ヘントン(Brian Henton, 1946年9月19日 - )は、イングランドのレスターシャー州キャッスル・ドニントン(en)出身の元レーシングドライバーである。ヘントンは1974年のイギリスF3選手権、1980年のF2選手権を制した。また、F1には1975年7月19日にデビューし、38レースに参戦したが、ポイントを獲得することはできなかった。 ヘントンは質素な公営住宅に育ち、レースを始めたのは23歳のときだった。1971年にイギリス国内のフォーミュラ・Vee選手権を制すると、PR活動の重要性を意識していたヘントンは、世界チャンピオンを獲得すると宣言した。この狙いは外れたが、ヘントンはF3、F2では成功を収めた。 ヘントンは1975年にロータスからF1デビューを果たした。ヘントン自身は良いドライブを見せたが、チームの混乱、競争力を失った72、失敗作の76という環境の中では明確な結果を残すことはできなかった。1975年から1978年に掛けて、ヘントンはF1とF2の両カテゴリーへ参戦したが(自身のチーム、ブリティッシュF1レーシングから散発的にマーチで参戦したことを含む)、どちらのカテゴリーでも確固たる成績を残すことはできなかった。しかし、その後1980年にはトールマンでF2のタイトルを獲得し、1981年には同チームからF1に復帰した。初期のトールマン・ハートは失敗作で、重量過多のうえ開発も不足しており、ヘントンは12戦にエントリーしたが予選通過は1回にとどまった。1982年にはアロウズとティレルから参戦したものの、実りある結果を残すことはなかった。 1982年を最後にヘントンはグランプリから離れたが、ブランズハッチで開催された1983年4月のレース・オブ・チャンピオンズに参戦した。これは2009年現在、最後に開催されたF1の非選手権レースである[1]。 このレースを最後にヘントンは引退を発表し、自動車ディーラー業に戻った。その後は事業を拡大し、不動産開発、エンジニアリング業も開始した。2001年にはモータースポーツに関わり、屋内サーキットをラフバラーとゲーツヘッドに開いた[2]。ヘントンはヒストリックモータースポーツのイベントでしばしばドライブし、故郷レスターシャーのIngarsby Hallで馬術イベントを主催した[3]。 年チームシャーシエンジン1234567891011121314順位ポイント 年所属チームマシンエンジンタイヤ車番12345順位ポイント
プロフィール
レース成績
ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
1974年マーチ・レーシングチームマーチ・742BMWBARHOCPAUSALHOCMUG
6KARPERHOCVLL22位1
1975年ブライアン・ヘントンマーチ・752ハートESTTHR
8HOC
3NUR
10PAU
DSQHOC
RetSAL
13ROUMUG
RetPER11位10
ウェートクロフト・レーシング
3ZOLNOGVLL
1976年ウェートクロフト・R26アバルトHOCTHR
DNSVLLSALPAUHOCROUMUGPERESTNOGHOCNC0
1977年Netherton & Worth Boxer CarsBoxer PR276ハートSIL
DNSTHR
1HOC
5NUR
9VLLPAU
9MUGROUNOGPERMISEST10位12
アレトモーレ・レーシングシェブロン・B40DON
7
1978年ブライアン・ヘントンマーチ・782THR
RetHOC
17NUR
5PAU
RetMUG
15VLL
8ROU
14DON
11NOG
RetPER
6MIS
11HOC
Ret16位3
1979年トールマン・グループ・モータースポーツラルト・RT2SIL
3HOC
4THR
RetPAU
RetHOC
RetZAN
5PER
DSQMIS
1DON
42位36
マーチ・782NUR
2VLL
RetMUG
1
1980年トールマン・TG280THR
1HOC
2NUR
2VLL
1PAU
31位61
トールマン・TG280BSIL
NCZOL
2MUG
1ZAN
12PER
2MIS
2HOC
太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
全日本フォーミュラ2000選手権
1975年カゴメマーチ VICICマーチ・742BMW M12/6B5FSW
3SUZFSWSUZSUZ-[4]-[4]
F1BRARSA
16GERAUT
DNSITAUSA
NCNC0
1977年ロスマンズ (マーチ)761BARGBRARSAUSW
10NC0
マーチ/ブリティッシュ・フォーミュラ1761ESP
DNQMONBELSWEFRAGBR