ブライアン・ジョンソン
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この項目では、AC/DCのヴォーカルについて説明しています。その他の人物については「ブライアン・ジョンソン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ブライアン・ジョンソン
2014年
基本情報
生誕 (1947-10-05) 1947年10月5日(75歳)
イングランドゲイツヘッド、ダンストン
ジャンルハード・ロック
ヘヴィ・メタル
ブルース・ロック
グラム・ロック
職業シンガーソングライター
担当楽器ヴォーカル
活動期間1972年 - 現在
レーベルEMI, Epic, Atlantic
共同作業者AC/DC, ジョーディー

ブライアン・ジョンソン(Brian Johnson、 1947年10月5日 - )は、イギリスロックシンガーで、ソングライターでもある。1980年からオーストラリアのロック・バンドAC/DCのリード・シンガー。

1972年、ブライアン・ジョンソンはグラム・ロックのバンド、ジョーディーの結成に参加した。イギリスでトップ10に入った「君にすべてを (All Because Of You)」など、数曲のヒットを放った後、1978年にバンドは解散してしまう。ジョンソンはバンドの再編を図り、1980年にはその目処がつき、新たな契約を結んだのだが、カリスマ的なフロントマンだったボン・スコットを亡くしたばかりの(1980年2月19日に死去)AC/DCから、オーディションを受けないかと打診された。あるファンが、AC/DCのマネジメントに、ジョンソンのジョーディーとしての演奏のテープを送っていたのである。ジョーディーの他のメンバーの賛同もあり、人気ラジオ番組司会者ジェイムズ・ホエールのアドバイスもあって、ジョンソンはAC/DCに参加することになった。

AC/DCに初参加したアルバム『バック・イン・ブラック』は、イーグルズの『イーグルス・グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』に次いで、史上3番目に売れたアルバムとなった[1]

1997年、ジョンソンは、ジャッカルというバンドと「Locked and Loaded」という曲を録音した。また、2002年には、このバンドのアルバム『Relentless』に収められた「Kill the Sunshine」の作詞を担当した。
生い立ち

ブライアン・ジョンソンは、イングランド北部のニューカッスル・アポン・タインに近いゲイツヘッドで生まれた。スコットランドとイタリアの血統を引き、4人兄弟の長子だった。父アランは、イギリス陸軍ダラム軽歩兵隊の曹長を務めた炭坑夫であり、母エステル・デ・ルーカは、フラスカーティ出身のイタリア人だった[2]。ジョンソンは子どもの時からボーイスカウト活動でいろいろなショーに出演し、テレビ放送された演劇に出演したり、地元の教会の聖歌隊に参加したりしていた[3]
初期の活動

ジョンソンの最初のバンドは、The Gobi Desert Canoe Club (「ゴビ砂漠カヌー・クラブ」の意)といった[4]。ジョンソンはまた、Fresh というバンドにも加わっていた[5]1970年からは、キャバレーやクラブで演奏していた the Jasper Hart Band に参加して、ミュージカルヘアー』の中の歌や、当時のソフト・ロックやポップ系の歌を歌っていた[6]。ジョンソンは、このバンドの仲間と、ジョーディーを結成することになった。

ジョンソンが初めて、そして唯一、ソロ名義で出したシングルは、ジョーディーの一員であった1976年に、レッド・バス(Red Bus)レーベルから出された「I Can't Forget You Now」であった。1982年、MCAレーベルから、ジョーディーの1973年から1976年の10曲を収めたコンピレーションが、『Strange Man』というタイトルでジョンソンのソロ・アルバム扱いで発売された。アメリカ合衆国で1989年に出たCD『Keep On Rocking』は、ジョーディーの曲として知られている全12曲の再録音盤で、「ブライアン・ジョンソン&ジョーディー」名義になっているが、1991年オーストラリアで出されたコンピレーション『Rockin' With The Boys 1972-1976』でも、同じ名義が使われている。
AC/DCのメンバーとして 『地獄の鐘の音』の演奏中に、大きな鐘にぶら下がるジョンソン

1980年3月、ジョンソンは、ロンドンへ来てAC/DCのオーディションを受けないかという誘いの電話を受けた。前任者のヴォーカリスト、ボン・スコットは、2月19日に、アルコールが原因で嘔吐物の誤嚥を起こし窒息死していたが、バンドは活動の継続を望んでいた。オーディションでジョンソンは、AC/DCの「ホール・ロッタ・ロジー (Whole Lotta Rosie)」と、アイク&ティナ・ターナーの「ナットブッシュ・シティ・リミッツ (Nutbush City Limits)」を歌った[7]。4月はじめ、ジョンソンは正式に、AC/DCの新しいヴォーカリストとして公表された。

この年の7月、ジョンソンをフィーチャーした最初のAC/DCのアルバム『バック・イン・ブラック』が発表された。このアルバムは、世界的な大成功を収め、史上有数の成功を収めたアルバムとなった。これに続いた1981年の『悪魔の招待状』も好調な売れ行きを見せた。その後、バンドのセルフ・プロデュースによるアルバム、1983年の『征服者 (Flick of the Switch)』と1985年の『フライ・オン・ザ・ウォール (Fly on the Wall)』は、さほどの商業的成功とはならなかった。1986年の『フー・メイド・フー (Who Made Who)』はホラー映画『地獄のデビルトラック』のサウンドトラックで、AC/DCを再び人気の主流に押し上げた。

1988年のアルバム『ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ (Blow Up Your Video)』は、ジョンソンの作詞による歌をフィーチャーしたAC/DCの最後のアルバムとなった。1990年の『レイザーズ・エッジ』以降は、ギターのアンガス・ヤングマルコム・ヤングの兄弟2人が、AC/DCの作詞作曲を全面的に担うようになった。ラジオのインタビューで、ファンから、なぜ歌詞の提供を止めたのかと問われたジョンソンは、「言葉が在庫切れになっちゃって」と笑って答え、レコーディング中にアルバム一枚分の歌詞を生み出さなければならないというプレッシャーは楽しく思えないときもあったと説明し、『レイザーズ・エッジ』のレコーディング中にヤング兄弟が作詞をやってくれたときにはほっとした、と述べた。これ以降、すべてのアルバムは、すべての楽曲がヤング兄弟の作詞作曲となった。2008年には、ヴォーカルがジョンソンに代わって10枚目のアルバム『悪魔の氷』が発表された。

ジョンソンは、ステージではキャップを被って登場し、時々キャップを脱ぐというのが定番となっている。元々ジョンソンは、出身地であるタインサイドを象徴するものと見なされる「フラット・キャップ (ハンチング帽)」を被っていたが、時々はベースボールキャップを被ることもある。ジョンソンが帽子をかぶるのは、歌っている最中にカールした髪から汗が滴り落ちて目に入るのを防ぐために、弟が帽子を勧めたことがきっかけだった。「弟が『そいつをかぶってみな、そしたら何をやっているのか見えるようにはなるはずだぜ!』と言ったんだ。それで、被ってみて、2番目のセットで3曲やった後、弟の方を見て、親指を立ててやったんだ - 『こいつはすごいぞ!』ってね。弟はそれで帽子を返してもらえなくなっちまった訳だ。」

2009年7月、ブライアン・ジョンソンは『Classic Rock』誌のインタビューで、引退を考えることもあるという発言をした[8]。しかし、同11月には、このコメントの意図は、コンサートを通して歌えないくらいになったら引退したいという意味で、すぐに引退するということではないとした[9]

2010年2月、ワールド・ツアーの最中、ジョンソンは、AC/DCにセットリストの変更を求める公開状を書いた一部のファンについて、毒舌を浴びせた。「くたばりやがれ!これまでに聞いたことがないファンはどうなるんだ?糞生意気な連中がいるもんだ。今じゃコンピュータ使って、どっかの自分ちにデカいケツで座り込んでいながら『あっ、連中また同じ曲を昨日の晩もやったよな、変えるのが当然だろ』と仰る。


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