ブライアント夫妻は北米の作曲チーム。
フェリス・ブライアント(Felice Bryant 、出生名Matilda Genevieve Scaduto, 1925.8.7. ? 2003.4.22)
ダイダリウス・ブーデロウ・ブライアント(Diadorius Boudleaux Bryant [ ?bu?d?lo?];[1] 1920.2.13 ? 1987.6.25)
の二人。
これまでに1,500曲の作曲に携わっており、主にエヴァリー・ブラザーズの作品、「夢を見るだけ」「バイ・バイ・ラヴ」「ラヴ・ハーツ」「メアリーへのメッセージ」などで知られる。[1] ブーデロウはジョージア州Shellman生まれ。クラシック音楽のヴァイオリンを習った。アトランタ交響楽団で1937-38年シーズンに演奏したが、カントリー音楽のフィドルが好きで、地元のバンドHank Penny and his Radio Cowboysに参加した。1945年、ウィスコンシン州ミルウォーキーでフェリスと出会い結婚した。 "All I Have To Do Is Dream"は自伝的で、フェリスはシャーウッド・ホテルのエレベーター・ガールをしていて彼を見たとき、すぐに「その人だと分かった」。8歳の時に夢の中で彼の顔を見て以来「永遠に探しつづけ」てきたのがブーデロウだった。ホテルの噴水で彼を見つけ駆け寄りうっかり彼を水びたしにし「お酒を飲みませんか」と誘ったとき、彼女は19歳だった。 結婚当初は経済的に困窮し、移動式住居で暮らし、80曲以上共作した。多くのカントリー歌手に曲を売ろうとしては無視・拒絶されていたが、リトル・ジミー・ディケンズが"Country Boy"を録音、1948年にカントリーで7位になり、テネシー州ナッシュヴィルの出版社Acuff-Rose Musicのソングライターであるフレッド・ローズと仕事ができるようになった。 1950年、夫妻はナッシュヴィルに引っ越し、フルタイムで作曲するようになった。1950年代初期の作品にはスイングする"Sugar Beet" (Moon Mullican録音)やブルージーな"Midnight" (レッド・フォーリー録音)がある。 Little Jimmy Dickensにさらに書き、Carl Smithにも書き、彼ら自身の45回転シングルを4枚だし、そこそこ成功した。 1957年以降エヴァリー・ブラザースの一連の大ヒット曲群を書き、国民的な作家になる。[1] ロイ・オービソンやバディー・ホリーにも書き、ヒットした。 後に彼らの作品を録音したのはトニー・ベネット, Sonny James
二人が出会うまで
夫婦作家としての活動
1962年,"Too Many Chicks"が初の黒人女性カントリー歌手Leona Douglasでヒット。彼女を発掘したのはMonumentレコードのFred Foster。彼はブーデロウの秘書の女性の名前がボビー・マッキーであることに気づき、クリス・クリストファーソンに彼女の名前を歌の中で使うよう提案し、クリストファーソンは「ミー・アンド・ボビー・マギー」という曲を書き、後にこの曲はジャニス・ジョプリンの歌唱によって大ヒットした。[2]
夫妻はテネシー州ヘンダーソン村のヒッコリー湖付近の家に引っ越し、ロイ・オービソンやジョニー・キャッシュなど、友人の近所に住んだ。
1978年、昔"Rocky Top"を書いた場所であるテネシー州ガトリンバーグ(英語版)に引っ越し、国立公園に近いホテルを買った。
1979年、自作アルバム『A Touch of Bryant』を発表。
1967年に書いた"Rocky Top"は1982年にテネシー州の州歌になった。
BMI賞を59回受賞。
1972年、「ナッシュヴィル・ソングライターの殿堂」入り、1986年、ソングライターの名声の殿堂入り、1991年カントリー音楽の殿堂入り、ロカビリーの殿堂入り。
「1950年代のイギリスで最も成功したソングライター」三位。[3] ブーデロウは1987年に亡くなった。フェリスは活発に作曲を続け、2003年に亡くなった。ナッシュヴィルのWoodlawnメモリアル・パーク墓地に夫婦で眠っている。
死
主な作品
Little Jimmy Dickens
"Country Boy" (1948)
"Bessie The Heifer"
エヴァリー・ブラザーズ
バイ・バイ・ラヴ(1957)
起きろよスージー (1957)
夢を見るだけ
愛をささげて(Devoted to You)(1958) : ビーチ・ボーイズが1964年のアルバム『ビーチ・ボーイズ・パーティ』でカバーした。
メアリーへのメッセージ (1959)