ブッシュレンジャー
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「ブッシュレンジャー」のその他の用法については「ブッシュレンジャー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
『セント・キルダ・ロード(英語版)のブッシュレンジャー』
画:ウィリアム・ストラット1887年)。ストラットによれば、1852年に“ブッシュレンジャーがビクトリア州で行った最も大胆な強盗のひとつ”を描いたとしている[1]。この絵画はビクトリア・ゴールドラッシュ(英語版)中にブッシュレンジャーが実行した強盗の場面。ブッシュレンジャーの構成員はそのほとんどがヴァン・ディーメンズ・ランド(現在のタスマニア島のこと。)の流罪を受けた人々で、この集団は“セント・キルダ・ロードの盗賊”と知られるようになった。

ブッシュレンジャー(: Bushrangers)は、オーストラリア前期における盗賊。元は脱走者の囚人で、逮捕から逃れるためにブッシュ(郊外の森林)に潜伏し、サバイバル術を有していた人々だった。1820年頃までに、“ブッシュレンジャー”という単語が“世を捨ててブッシュを拠点に武装略奪を行う者”を表すようになった[2]。これらブッシュレンジャーは、主に囚人の子息で、イギリスの追いはぎ(ハイウェイマン)や、アメリカ合衆国アウトローに類似していた。彼らの犯罪は、小さな町の銀行や輸送業者を襲撃することだった。有名なブッシュレンジャーはダン・モーガン(英語版)、クラーク兄弟(英語版)、ネッド・ケリー(最も著名)などで、大勢の警察官が殺害された。1880年のネッド・ケリーの処刑がブッシュレンジャーの終焉とされる。
歴史『ネピーアン川(英語版)の眺め』 (1825年。ジョセフ・リセット(英語版)画。) 銃を持ったブッシュレンジャーたちの宴が描かれている。1870年のキャプテン・サンダーボルト(英語版)の最期の様子。ニューサウスウェールズ州でブッシュレンジャーの流行に陰りが見え始めた頃に描かれた。

ブッシュレンジャーは、脱走囚人に端を発し、ネッド・ケリーのグレンロワン篭城で終焉を迎えるまで、2000名以上が地方で暴れ回ったとされる[3]
1850年代:ゴールドラッシュ期

ビクトリア・ゴールドラッシュ(英語版)(1850‐1860年)はブッシュレンジャーの全盛期であり、金脈(金は持ち運びしやすく、現金に換えやすかった。)の発見が彼らに莫大な富をもたらした。彼らの活動は、孤立した採金地とゴールドラッシュに乗じて職務を放棄した警察官に支えられていた[3]

ジョージ・メルヴィルは、1853年にカスルメーン付近でマックアイバーの輸送を襲ったとして、大衆の前で絞首刑に処された[3]
1860年代

ブッシュレンジャーの人数は、貧乏な植民者の子供の増加に伴ってニューサウスウェールズ州で増加した。また、前科者の生活は、農場経営や鉱山で働くことよりも魅力的に思われていた[3]。また、この年代にブッシュレンジャーの活動が頻発したのは、カウラヤス、ワイアンガラ(英語版)などである[3]

フランク・ガーディナー(英語版)、ジョン・ギルバート、ベン・ホールなどは、この時代では特に著名な盗賊団の棟梁であった。その他のブッシュレンジャーには、マレー川を拠点にしていたダン・モーガンやキャプテン・サンダーボルト(英語版)などがいる[3]。平均的なブッシュレンジャーの寿命を考えれば、サンダーボルトは最も成功したブッシュレンジャーであろう。彼は1870年にユララで射殺されるまで、6年6ヶ月にわたってニューサウスウェールズ州で強盗をはたらいた[4]。彼の死により、ニューサウスウェールズ州におけるブッシュレンジャーの流行は収束に向かった[5]
1870-1900年代

ブッシュレンジャーに襲われる村落が増加した頃、警察官の警備の目の強化、交通手段や電信のような連絡技術の進歩によって、ブッシュレンジャーにとって逮捕を回避することは難しくなった。

最後のブッシュレンジャーはネッド・ケリー率いる"ケリー・ギャング"で、2年の活動の後の1880年にワンガラタに近いグレンロワンで捕えられた。

しかし、1900年にはガバナー兄弟がニューサウスウェールズ州北部で暴れ回った[3]
大衆からの認知Cobb & Co社(英語版)(運送会社)の乗り物を襲うブッシュレンジャー(作品名は『Bailed Up(英語版)』、1895年のトム・ロバーツによる作品)。彼らの行いとは裏腹に、ブッシュレンジャーはオーストラリア人の典型(気まぐれで無駄口を叩かない)と大抵は認識されていた。

オーストラリア国内でブッシュレンジャーは大衆から関心を集めており、義賊(ぎぞく、反社会的でありながら民衆からは支持されている賊)とされることもしばしばあった。オーストラリアの歴史において、ブッシュレンジャー達はごく一部では尊敬されているという。その理由は、彼らの勇猛さや国家権力の反カトリック主義に対抗していたこと、彼らが「世の中の無警察化」というロマン主義を成し遂げたことなどである。ブッシュレンジャー達の中で、特筆すべきはネッド・ケリーであろう。彼の手紙(ジェリルデリーの手紙(英語版))や最後の戦いであるグレンロワン篭城は「ブッシュレンジャー=社会的な反抗者」という立場を明白に映し出している。ネッド・ケリーの認知度は有名なブッシュレンジャーの中でもずば抜けているが、これはオーストラリア国民のブッシュレンジャーに対する両価性を例証していると言えよう。ビクトリアン・ブッシュレンジャーズはビクトリアの荒野に生きたケリー・ギャングを称え、「ブッシュレンジャー」をチーム名の一部として採用している。
大衆文化として世界初の長編物語映画である1906年製作の『The Story of the Kelly Gang(英語版)』でネッド・ケリーを演じる俳優。

トム・ロバーツハイデルバーグ派の創始者で、オーストラリア印象派の先駆者)はブッシュレンジャーを『In a corner on the Macintyre(英語版)』(1894年)や『Bailed Up』(1895年)等の絵画に描いた(両方ともかつてキャプテン・サンダーボルトが活動したインベレルで描かれた)。

『The Story of the Kelly Gang(英語版)』(1906年)はブッシュレンジャーを題材にした初の映画ではなかったが、世界初の長編物語映画であり、そのジャンルにおける模範となった。この映画の成功を背景に、この映画の製作者らは『Robbery Under Arms』を制作した。オーストラリアにおける映画界の「黄金時代」(1910?1912年)の初期、ジョン・ゲイビンはブッシュレンジャーの実生活を描いたフィクション映画2作品を発表した。『Moonlite』(1910年)と『Thunderbolt』(1910年)である。ブッシュレンジャーを題材とした映画の人気は民衆に広がり、世界の映画史に前代未聞の金字塔を打ち立てた[6]。1911年発表の『Dan Morgan』は題名にもなっているブッシュレンジャーを「狂った悪役」ではなく、「ロマンスのある人物」として描いていることに特筆性がある。ベン・ホール、フランク・ガーディナー、キャプテン・スターライトや、その他大勢のブッシュレンジャーらがこの時代に映画化された。映画で表現されたブッシュレンジャーのような反社会的勢力の栄光に民衆が熱狂したため、1912年に州政府は「ブッシュレンジャーに関連する民間伝承や文化的景観」を禁じ、これによってブッシュレンジャーを題材とした映画は規制されることとなった[7]。この規制はオーストラリアの映画産業の崩壊の主要な原因になったとみなされている[8]。作品数は少ないがオーストラリアのブッシュレンジャー映画には外国へ移されたものがあり、その代表的存在として『Robbery Under Arms』がある[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef