ブッカ・ホワイト
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ブッカ・ホワイト
出生名Booker T. Washington White
生誕
1909年11月12日
出身地 アメリカ合衆国ミシシッピ州アバディーン - ヒューストン 間
死没 ( 1977-02-26) 1977年2月26日(67歳没)
ジャンルデルタ・ブルース、Country blues
職業歌手ギタリストソングライター
担当楽器スティール・ギターフィドルピアノ
活動期間1920年代末 - 1977年

ブッカ・ホワイト (Bukka White) として知られる、ブッカ・T・ワシントン・ホワイト(Booker T. Washington White、1909年11月12日 - 1977年2月26日[1]は、アメリカ合衆国デルタ・ブルースギタリスト歌手。「ブッカ (Bukka)」という通称は、ホワイトの本名 (Booker) を音写したもので、1937年にVocalionレーベルから出た2枚目のレコードで、初めてこの表記が用いられた。
目次

1 生涯

2 後年への影響

3 出典・脚注

4 外部リンク

生涯

ミシシッピ州のアバディーン (Aberdeen) と ヒューストン (Houston) の中間の辺りで生まれたホワイトは、B・B・キングの母親といとこの関係であった(ホワイトの母親と、キングの祖母は姉妹であった)[2]。ホワイトは、ナショナル・ストリング・インストゥルメンツ・コーポレーション製のスティール・ギターを使用していたことがよく知られていた。また、さほど頻繁にではなかったが、ピアノも演奏した。

ホワイトのミュージシャンとしてのキャリアは、スクウェアダンスのためにフィドルを演奏することから始まった。ホワイトは活動の初期にチャーリー・パットンに会ったことがあると述べていたが、これについては疑問が投げかけられている[3]。事の真相はどうであれ、パットンはホワイトに大きな影響を与えた。ホワイトは、オープン・チューニングスライドギターを演奏するのが常であった。ホワイトは、スキップ・ジェイムスらとともに、Eマイナー(ホ短調)のクロスノート・チューニング (crossnote tuning) を用いる少数のミュージシャンたちの一人であったが、これはジェイムス同様に、ヘンリー・スタッキー (Henry Stuckey) から学んだものであったかもしれない。

ホワイトは、1930年ビクター・レコードで最初の吹き込みをした。ビクターの録音は、他の多くのブルースマンたちがそうであったように、カントリー・ブルース (country blues) からゴスペル音楽にまたがるようなものであった。ビクターは1930年にホワイトの写真を公表した。ホワイトのゴスペルは、ブラインド・ウィリー・ジョンソンのスタイルで歌われており、歌詞の各行の最後のフレーズに、女性歌手の伴唱でアクセントをつけている[4]

9年後、暴行で服役していたホワイトは、フォークロリスト(民俗文化研究者)ジョン・ロマックス (John Lomax) の求めに応じて録音を行なった。この前後に吹き込まれた曲の中には、ホワイトの曲として最もよく知られている「シェイク・エム・オン・ダウン (Shake 'Em on Down)」や「Po' Boy」などが含まれている。

ボブ・ディランは、ホワイトの「Fixin' to Die Blues」をカバーしており、それも一助となって1963年には、ギタリストのジョン・フェイヒー (John Fahey) と、ED・デンソン (ED Denson) によって、ホワイトは「再発見」され、1960年代フォーク・リヴァイヴァルのシーンに登場することになった。もともとこの曲は、ビクターの音楽プロデューサーがホワイトの他の曲をあまり気に入らなかったために、録音する事になったものであった。この曲はスタジオで即席に作られた作品で、30年後に再度注目されるまでホワイト自身も気に留めてもいないものであった[5]

ホワイトは一時期、経験豊かなブルース関係のマネージャーであるアーン・ブロガー (Arne Brogger) のマネジメントの下にあった。フェイヒーとデンソンがホワイトを見つけるのは簡単だった。フェイヒーは「Bukka White (Old Blues Singer), c/o General Delivery, Aberdeen, Mississippi」(高齢のブルース歌手であるブッカ・ホワイト様:ミシシッピ州アバディーン、一般配達係気付)とだけ宛名書きした葉書を出したのである。フェイヒーは、ホワイトの歌「Aberdeen, Mississippi」 から、ホワイトがまだそこか、その近傍に住んでいるものと踏んでいた。この葉書は、テネシー州メンフィスへ転送され、タンク工場で働いていたホワイトのもとへ届いた。程なくしてフェイヒーとデンソンは、ホワイトと会うためにメンフィスへ赴き、フェイヒーはホワイトと、終生の親交を結んだ[6]。ホワイトは、デンソンとフェイヒーのタコマ・レコード (Takoma Records) で新たなアルバムを吹き込み、デンソンのマネジメントの下に入った。

後にホワイトは、やはりミュージシャンであるフューリー・ルイス (Furry Lewis) とも親しくなった。ふたりは、おもにルイスのメンフィスのアパートで、一緒にアルバム『Furry Lewis, Bukka White & Friends: Party! At Home』を制作した。


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