市旗市章
位置
ヴコヴァル=スリイェム郡でのヴコヴァルの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度21分00秒 東経19度00分12秒 / 北緯45.35000度 東経19.00333度 / 45.35000; 19.00333
ヴコヴァル(クロアチア語: Vukovar,ハンガリー語: Vukovar,セルビア語: Вуковар,ドイツ語: Wukowar)は、クロアチア、ヴコヴァル=スリイェム郡の都市及び基礎自治体でヴコヴァル=スリイェム郡の郡都である。
地勢・交通1991 年の祖国戦争後の市内中心部の廃墟クロアチア独立戦争における戦争犠牲者の国立記念墓地大きな教会ドナウ川から見た市内中心部旧グランドホテル
地理的には、スラボニア東部に位置し、ドナウ川とヴゥカ川の合流地点に位置し、大きな河港がある。ドナウ川を挟み、対岸はセルビアのヴォイヴォディナである。都市の名であるヴコヴァルは町を流れるヴゥカ川から来ており、ハンガリー語ではヴァル(var)は城を意味する。ヴカ川はもともとはスラヴ語で狼を意味するヴゥク(vuk)から来ているとされる。ヴィンコヴツィの北東20km、オシエクの南東36kmの場所に位置し標高は108mである。市街はドナウ川に沿って広がり、ヴコヴァル市部は南東部にボロヴォ・ナセリェ地区(Borovo Naselje)は北西部に別個に広がっている。ヴコヴァル基礎自治体にはリポヴァチャ(Lipova?a)やソティン(Sotin)、グラボヴァ(Grabovo)などの村も含まれる。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代のヴコヴァルの行政区域は現在よりも広かったが、その後いくつかの自治体に分割されている。ヴコヴァルには幹線道路D2号線(オシエク - ヴコヴァル - イロク)とヴィンコヴツィ - ヴコヴァル鉄道が通じている。 17世紀後半からヴコヴァルはハプスブルク君主国の一部となり、以前はクロアチア王国とハンガリー王国の一部であったオーストリア皇帝属領のスラヴォニア王国に含まれた。この間、ヴコヴァルはスレーム県の中心地となった。1868年からスラヴォニア王国はクロアチア王国と一緒になりクロアチア=スラヴォニア王国と呼ばれるようなり、ヴコヴァルもその中に含まれた。1910年、ヴコヴァルの人口は10,359人を数えクロアチア人が4,092人(39.02%)、ドイツ人が3,503人(33.80%)、セルビア人が954人(9.20%)、ハンガリー人やその他の民族が183人(1.80%)を占めていた。1918年より後のユーゴスラビア王国となるスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部となる。1918年から1922年にかけてスレム郡の行政的な中心となり、1922年から1929年にかけてはスレム州の行政の中心とされた。1929年からはサヴァ自治州 クロアチア紛争時のヴコヴァルの戦い
歴史
中世(en)が治めるパンノニア君主国(en)や、ブルガリア帝国の一部であるスラヴ人国家であったバラトン君主国(en)のプリビナ(en)の統治下にあった。11世紀から12世紀にかけてはクロアチア王国の統治下に入る。ヴコヴァルが最初に言及されたのは13世紀のことで、ヴォルコ(Volko)やワルク(Walk)、ウォルコヴ(Wolkov)等の名称であった。もともとのクロアチア人などのスラヴの名称では町はヴコヴォの名である。14世紀からはもっとも広く現在でも使われる名称であるヴコヴァル(Vukovar)が使われるようになった。ハンガリー王はヴコヴァルをドラヴァ川とサヴァ川の間に位置するスレム王国の中心とした。16世紀から17世紀にかけてはオスマン帝国に支配される。オスマンの支配が終わる頃の町には約3,000人が居住していた。
近世・近現代
クロアチア紛争