ブィリーナ
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ヴィクトル・ヴァスネツォフ画「英雄たち」(1898年)。左からドブルィニャ・ニキーティチイリヤー・ムーロメツ、アリョーシャ・ポポーヴィチ。いずれもブィリーナに登場する勇士たちである。モスクワトレチャコフ美術館

ブィリーナ(: были?на)は、ロシアに伝わる口承叙事詩。代表的なブィリーナとして、イリヤー・ムーロメツの物語がある。なお、日本語ではヴィリーナとも表記される。

現存する叙事詩のほとんどすべてが古ロシア語で書かれており、古ロシア文学の記念碑の1つである。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ロシア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。ブィリーナ
概要ヴィクトル・ヴァスネツォフ画「分かれ道に至った騎士」(1878年)。騎士(イリヤー)の前のメンヒルには「左に行けば馬を失い、右に行けば首を失う」と文字が彫られている。

ブィリーナは口承であるために、発生・成立がいつごろなのかについて、はっきりしたことは分からない。おおむね10世紀末から12世紀初頭にかけて、キエフ大公国の勃興・隆盛と時期を同じくして民衆の間でブィリーナは生まれたのではないかと考えられている。また、成立事情のほか、ブィリーナを創造・伝承した社会層やそのイデオロギーをめぐっても、さまざまな見解がある。

ブィリーナの存在が歴史的に確認されたのは、17世紀である。現代におけるブィリーナの「発見」は19世紀後半であり、以降、ロシアおよびソビエト連邦の研究家によってブィリーナの採録・研究がすすめられた。現在、およそ100の主題について2,000のブィリーナのテクストが知られる。

ブィリーナが集中的に残っていたのは北部ロシアであり、このほかシベリアドン川下流域などでも採録された。しかし、物語の主要な舞台であり、ブィリーナの成立にも関わると考えられているキエフをはじめ、ウクライナや中央ロシア、ノヴゴロドではほぼ口承が失われていた。これらの原因についても諸説あって定かでない。19世紀以降、口承が残っていた地域でも、採録が進んでテクストが充実したのとは逆に、口承の伝統そのものは衰微し、現在では事実上途絶えたものと見られる。

ブィリーナは韻文形式で伝承され[1]、各行に二、三のアクセントを含み、独特のリズムを持つ。リズムや物語の細部は語り手によって差異が認められるが、特定の形容語句・決まり文句の多用や重要な場面で同一動作を三度繰り返すパターンなどが特徴として共通する。

ブィリーナの題材は、その多くがロシアの民族・国土を守って敵と戦う英雄を主人公としており、キエフ大公国を舞台として「太陽公」ウラジーミルに仕える勇士たちの活躍を描くものが中心的である。イリヤー・ムーロメツの物語は、そのなかでももっとも有名なものであり、イリヤーはブィリーナ最大の英雄とされている。このほか、キエフ・ルーシ以前のより古い時代からの由来を思わせる物語や12世紀ごろに栄えたノヴゴロドを舞台とする物語などが伝えられている。ブィリーナは、歴史歌謡のように具体的な史実そのものを描いたものではないが、そこにはかつてのロシア人の世界観、風俗習慣、文化が反映されており、史料としても貴重である[2]
ブィリーナの歴史「ロシアの千年」記念像のウラジーミル1世ノヴゴロド
起源・成立

ブィリーナのテクストは17世紀以降から知られ、18世紀-19世紀にその最良の部分が採録された。それ以前は口承によって伝えられたため、古い形が知られておらず、ブィリーナがいつ発生したかについては仮説にとどまっている。

ブィリーナに登場する主要な英雄は20人あまり、物語の筋は100種ほどである。このなかで、キエフで「太陽の君」と呼ばれるウラジーミル公をめぐる勇士たちを主人公とするものが圧倒的に大きな比重を占める。このウラジーミル公を史実に当てはめようとしたとき、「聖公」と呼ばれたウラジーミル1世(955年? - 1015年)なのか、あるいはその曾孫に当たるキエフ大公ウラジーミル2世モノマフ(1053年 - 1125年)のいずれを指すのかについては議論が分かれている。いずれというよりも、むしろ二人の著名な公がキエフに本拠を置く全ロシアの支配者として普遍化されたともいえる。

このことから、10世紀から13世紀までのキエフ大公国の時期にブィリーナは形を整えたとする説が唱えられる[注 1]。一方、聖公ウラジーミル以前から原型が存在したとする説もある。また、現存するブィリーナのテクストには、モンゴルジョチ・ウルス)の支配に抵抗するロシア勇士の活躍が多く描かれており、13世紀から15世紀にかけての「タタールのくびき」の時代に生み出されたと考えられるものもあることから、ブィリーナの成立をもっと遅い時期とする説などがあって、論争に決着は付いていない。とはいえ、遅くとも11世紀を下らないころにブィリーナの古い形が存在していた、とする見解が多数を占めている[4]

また、ロシアの教育学者ウラジーミル・ポポノフは、12世紀ごろにキエフ大公国で成立した英雄叙事詩イーゴリ軍記』の作者として、11世紀後半の伝説的詩人ボヤン(英語版)を挙げ、ボヤンの名はロシア音楽にとって象徴的なものになり、ブィリーナ的叙事詩や英雄歌集の模範となったとしている[5]


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